HISTORICAL PERSON · 1009年没

ヨハネス18世 (ローマ教皇)

ローマ教皇(在位1004〜1009年)。在任中はクレスケンティウス3世に従属していたと伝わる。教会組織の管理に専心し、スラヴ人布教の前線としてバンベルクに司教座を制定した。退位後、修道院で没した。

生涯
1009年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ヨハネス18世は、11世紀初めのローマ教皇である。日本語版は在位を1004年から1009年とし、英語版とポルトガル語版は1003年12月25日に就任して1009年7月に退位したと記している。本名はジョヴァンニ・ファサーノで、ラテン語名はヨハネス・ファサヌスである。英語版とポルトガル語版によればローマのファサーノ家の生まれで、日本語版はラパニャーノで生まれたとする。父は聖職者で、名はレオだとヨハン・ペーター・キルシュが述べ、ウルススだとホレス・キンダー・マンが述べる。生年は、日本語版では不明で、ポルトガル語版は960年とする。先代のヨハネス17世の在位はわずか数か月であり、彼はその後継として選ばれた。

彼の選出は、ローマを支配するクレスケンティウス一族の力によるものであった。伝承によれば、在位のあいだずっと、一族の首領でパトリキウス(貴族階級の軍事指導者)であったヨハネス・クレスケンティウス3世に従属していたとされる。英語版によれば、彼はローマの支配をめぐるヨハネス・クレスケンティウスとハインリヒ2世の争いのさなかに在位し、世俗の権力をほとんど振るえなかった。この時期には、のちに神聖ローマ皇帝となるハインリヒ2世と、オットー3世の死後の1002年にイタリア王位を主張したイヴレーアのアルドゥイーノとの衝突が続いていた。ローマはたびたびペストに見舞われ、シチリアのイスラーム首長国を拠点とするサラセン人が、ティレニア海沿岸を略奪していた。教皇の在位は、こうした不安定な情勢の中で続いた。

こうした中、教皇は、英語版の言葉では、主に教会行政の細かな事柄に時間を費やした。スラヴ人への布教の前線として、バイエルンのバンベルクに司教座を設けることを認めたが、これはハインリヒ2世にとっても重要な案件であった。また、フルーリー修道院長の特権をめぐって、サンス司教とオルレアン司教が権限を越えたとの訴えを裁定した。英語版によれば、少なくとも一時的には東西の教会の接近をもたらすことにも成功し、その名は東方教会の記念名簿に載り、コンスタンティノープルのミサでも祈りが捧げられたという。

ヨハネス18世は1009年7月に退位し、ある教皇目録によれば、ローマの修道院に入って、間もなく亡くなった。日本語版は没日を7月18日とし、ポルトガル語版は7月31日とするなど、資料に食い違いがある。後継者は教皇セルギウス4世である。英語版は、彼が洗礼名を教皇名としてそのまま用いた最後の教皇で、以後何世紀にもわたり、ハドリアヌス6世とマルケルス2世を除く教皇は、みな新しい教皇名を名乗ったと記す。

教皇ヨハネスの番号についても説明が残る。ヨハネス16世が対立教皇であるため、正確には彼は17番目の「教皇ヨハネス」にあたる。しかし当時はヨハネス16世を正統な教皇と見なしていたため、16番目の教皇はヨハネス17世と称され、彼もこれに続いた。さらに、14世と15世のあいだにもう一人の教皇ヨハネスがいたという説があり、その伝説上の教皇を16世とすることがあったため、一部の歴史学者は彼をヨハネス19世、またはヨハネス18世(19世)と呼ぶ。

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