伝記
オトン(970年ごろ - 1012年)は、下ロレーヌ公である。ドイツ語ではオットーと呼ばれ、下ロートリンゲン公オットーとも記される。下ロレーヌ公シャルルと、その最初の妃でモー伯・トロワ伯ロベール・ド・ヴェルマンドワの娘とされるアデライードの長男である。父方の祖父は西フランク王ルイ4世にあたり、祖母ゲルベルガは東フランク王ハインリヒ1世の娘で、神聖ローマ皇帝オットー1世の妹だった。
父シャルルは下ロレーヌ公で、西フランクの王位を争う立場にあった。西フランク王ロテール4世が986年に没し、その子ルイ5世が987年に亡くなると、シャルルが後継者と目されたが、パリ伯でフランク人の公であるユーグ・カペーが反抗した。ランス大司教アダルベロンはシャルルを攻撃し、外国の王に仕えていること、身分の低い女性と結婚していることを理由に、王にはなれないと述べたとされる。ユーグは987年7月3日にノワイヨンで王に宣言され、戴冠した。シャルルは王位をあきらめず、ランスとランを占領してユーグと戦った。この戦いに向かうにあたり、シャルルは987年に下ロレーヌ公領の摂政をオトンに託した。当時のオトンは二十歳に満たなかったとみられる。
シャルルは991年、復活祭の翌月曜日にラン司教アダルベロン(アスケリヌス)の裏切りによって捕らえられてユーグ・カペーに引き渡され、妻とともにオルレアンの塔に幽閉された。その塔で、末の二子ルイと、同名のシャルルが生まれたと伝えられる。シャルルはオルレアンに囚われたまま、991年から992年にかけて死んだ。その後、長男のオトンが公位を継いで、帝国の臣下となり、フランス王国とはもはや関わりを持たなかったという。弟のルイは、司教に囚われたまま、フランス王位を求める立場となった。公位の就任は991年とも993年ともされる。
1002年に皇帝オットー3世が亡くなると、オトンは遺体をイタリアからアーヘンへ運ぶ際に付き従った有力者の一人だった。1005年には、ドイツ王ハインリヒ2世を親族と呼んで、メッス司教の選出で支持したと伝えられる。没年については、ジャンブルーのシゲベルトの年代記が1005年あるいは1006年と記すが、実際にはそれより長く生き、1012年にはなお存命で、1013年か1014年ごろまで生きていたとみられる。後継としてヴェルダン伯ゴットフリート2世が下ロレーヌ公位を与えられた。妻は分かっておらず、子もなかったとされるが、アルメンガルドの父だとする説もある。ただしアルメンガルドは、シャルルの娘とされることもある。
オトンはカール大帝の三男ルートヴィヒ1世の最後の男系子孫の一人で、正統の男系では最後の人物とも呼ばれる。1023年ごろに弟ルイが亡くなると、カール大帝の長男ピピンの庶子ベルナールの子孫であるヴェルマンドワ家を除いて、カロリング家の嫡出の血統は絶えた。
同じ年に亡くなった人物
- スヴェイン・ハーコナルソン (1010年代没)
- アブー・サフル・マスィーヒー (1010年)
- エインシャムのエルフリクス (1010年没)
- ベルト・ド・ブルゴーニュ (1010年没)
- ゲルベルガ・フォン・ブルグント (1010年代没)
同じ地域に関係する人物
- ミヒール・コクシー (1592年没)
- ウジェーヌ・デュボワ (1940年没)
- ダルタニャン (1673年没)
- ティヌス・オーセンダルプ (2002年没)
- マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー (2008年没)