伝記
フリードリヒ・エンゲルスは、1820年11月28日、プロイセン王国ユーリヒ・クレーフェ・ベルク州のバルメン(現在のヴッパータール市の一部)に生まれた。社会思想家、政治思想家、ジャーナリスト、実業家で、国際的な労働運動の指導者となった。同姓同名の父と母エリーザベトの長男で、三人の弟と四人の妹がいた。バルメンは18世紀から紡績業で栄えた工場町で、「ドイツのマンチェスター」とも呼ばれた。父は祖父が経営する紡績工場で管理者として働き、のちに「エルメン&エンゲルス商会」の経営者となった。信仰心の篤い地域と厳格な父には反発を覚えたが、弟、とくに母と妹には生涯愛情を持ち続けた。
学問が優秀で、語学に長け、音楽や美術、スポーツにも才能を発揮した。ドイツの古典文学を学んで『ニーベルンゲンの歌』などに親しみ、将来は大学で法律を学んで公務員になるか、文学を学んで詩人になりたいと考えていた。しかし、息子を実業の世界に進ませたかった父は、保守的な敬虔主義の信条もあって理解を示さず、1837年に彼を学校から退学させた。17歳から家業を手伝い、麻や綿の性質、漂白や染色、紡績の知識を教え込まれた。貿易港ブレーメンの商会でも見習い事務員として働いたが、父の監督がないと模範的な見習いではなく、退屈な事務に飽きて、詩やフェンシング、水泳、社交を楽しんだ。このころから口髭を生やし始めたが、当時、口髭は愛国的な共和主義の表れと見なされた。ベルネ、ハイネ、グツコーら「青年ドイツ」の文化人にも刺激を受けた。
その後ベルリンで砲兵隊の訓練生として軍に参加し、父の監督から解放された。軍務のかたわら、ベルリン大学でシェリングの講義を聴き、哲学の世界へ関心を広げ、急進的な青年ヘーゲル派に傾いていった。1842年、22歳でイギリスの工業都市マンチェスターの工場で働くためにバルメンを出る途中、ケルンでカール・マルクスと初めて会った。マンチェスターで商会の仕事に携わりながら「国民経済学批判大綱」を発表し、アイルランド人の女工メアリー・バーンズの協力を得て著作を執筆し、名を挙げた。1844年にパリでマルクスに再会し、急速に親交を深めて、『聖家族』を共同で執筆した。1845年から47年にかけてブリュッセルで近くに住み、『ドイツ・イデオロギー』を共同執筆して、唯物史観の世界観を築いた。共産主義者同盟の綱領『共産党宣言』も、マルクスとともに共同で起草した。
1848年のドイツ三月革命では義勇軍に参加して軍事的才能を発揮したが、敗れてロンドンに逃れた。革命に加わったために勘当されたが、生活難を打開するため父に頭を下げて事業に復帰し、1850年から69年にかけて事業に励み、マルクスへ経済的援助を続けた。1867年にマルクスが『資本論』を発表すると、実業界を引退してロンドンに移り、1878年には『反デューリング論』を執筆した。1883年のマルクスの死後は、「第二ヴァイオリン」から「第一ヴァイオリン」として運動を指導し、1884年に『家族・私有財産・国家の起源』を発表し、『資本論』第二巻・第三巻の完成と刊行に全力を注いだ。1889年に第二インターナショナルの名誉会長となった。晩年は喉頭癌を患い、1895年8月5日にロンドンで死去し、遺灰は遺言によりドーバー海峡に散骨された。
同じ年に亡くなった人物
- シャルル・フレデリック・ウォルト (1895年没)
- クヌート・クヌーツェン (1895年没)
- ラヒリ・マハサヤ (1895年没)
- アルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェン (1895年没)
- 丁汝昌 (1895年没)
同じ地域に関係する人物
- ラカトシュ・イムレ (1974年没)
- ハーバート・ロム (2012年没)
- ウィリアム・ビーチー (1839年没)
- ドナルド・ウィニコット (1971年没)
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