HISTORICAL PERSON · 1895年没

ルイ・パスツール

フランスの化学者・細菌学者。低温殺菌法を開発し、狂犬病ワクチンなどを発明した。コッホと並ぶ近代細菌学の開祖とされる。

生涯
1895年没
死亡地
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県 / Castle of Villeneuve-l'Etang)
出生地
フランス共和国(ドル)
出典
世界地図
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県)

伝記

ルイ・パスツールは、1822年12月27日にフランスのジュラ地方のドールで、皮なめし職人の息子として生まれ、1895年9月28日にパリ近郊のマルヌ=ラ=コケットで没した生化学者・細菌学者である。「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」という言葉で知られ、ドイツのロベルト・コッホとともに「近代細菌学の開祖」とされる。1843年にパリの高等師範学校に入学し、1846年に博士号を取得した。化学を専攻したが、初めは目立った才能が見られず、指導した教授の一人は彼を「平凡である」と評したという。

初期の化学者時代の業績に、酒石酸の性質の解明(1849年)がある。ワインの澱からとれる酒石酸の溶液は、偏光を入射すると偏光面を時計回りに回転させるが、同じ分子式をもつ人工合成のものでは回転が起こらないことに気づいた。人工の酒石酸の塩の小さな結晶を調べると、非対称な2種類の形が鏡像になっており、根気のいる分離作業で2種類を分けると、一方は偏光面を時計回りに、他方は反時計回りに回転させ、等量を混ぜたものは何の効果も及ぼさなかった。そこから、酒石酸の分子は左手と右手の手袋のように、互いに鏡像の関係にある2種類の形があると推論した。光学分割によってキラル分子の存在を初めて実証したこの結晶学の博士論文で、ストラスブール大学の化学教授の地位を得た。1854年にリールの新しい理科大学の学部長に指名され、1857年に高等師範学校の事務局長兼理学部長となった。この時期にアルコール製造業者から「ワインの腐敗の原因を調べてほしい」と頼まれたことが、微生物学の研究に向かう契機となった。

1861年に『自然発生説の検討』を著し、従来の「生命の自然発生説」を否定した。首を細長く曲げた「白鳥の首フラスコ」を考案し、煮沸した肉汁が腐敗しないことを示して、腐敗した肉汁の微生物はすべて外界から混入したものだと論じた。アルコール発酵が酵母の働きによること、酢酸発酵が別の微生物の働きによることも確認した。ワインの変質を防ぐため、60度程度で加熱して殺菌する方法を開発し、英語の名称「パスチャライゼーション」は彼の名に由来する。1862年4月20日には、クロード・ベルナールとともに、のちに低温殺菌法として知られる最初の実験を行った。また、空気や酸素なしに増殖する嫌気性菌も発見した。

1865年には、微粒子病でたくさんのカイコが死んでいた養蚕業の救済に取り組み、研究の途中で脳卒中により左半身不随となったが、この病気がカイコの卵への原生生物の感染であることを突き止め、防止する道をひらいた。当時、日本の将軍徳川家茂がナポレオン3世にカイコの卵を贈っており、その一部がパスツールの研究用に分けられたという。微生物が動物や人にも感染して病原体となる可能性を示唆したのも彼である。弱毒化した微生物を接種して免疫を得る方法を見いだし、ワクチンの予防接種を発展させ、狂犬病のワクチンも開発した。病原体のウイルスをとらえられないまま、犬の体で培養を行い、ワクチンの開発に成功した。コッホとは強いライバル関係にあり、固体培養を駆使したコッホに対し、液体培養で研究を進めたパスツールは、技術の面では水をあけられたが、様々な概念を作り上げた点で貢献は大きい。1892年には、帰国途上でパスツール研究所に立ち寄った北里柴三郎と面会し、祝福を込めた自筆の添え書きのある自身の写真を贈った。1895年、1868年から続いた一連の発作による合併症で没し、遺骸はノートルダム大聖堂に葬られたのち、パスツール研究所の地下聖堂に改葬された。

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