伝記
ウラジーミル1世は、リューリク朝のキエフ大公(在位978年から1015年7月15日)で、キエフ大公国をキリスト教化した人物である。正教会とカトリック教会の聖人として、聖公ウラジーミルとも呼ばれる。生年は955年頃とも958年ともされる。キエフ大公スヴャトスラフ1世の子で、母は祖母オリガに仕えた鍵番のマルーシャである。英語版は、彼を庶子で末子とし、母の兄ドブルィニャが家庭教師であり、最も信頼できる助言者でもあったと記す。父は彼をノヴゴロド公に任じた。後継者と目されたためであろうと言われる。キエフは正嫡の兄ヤロポルクに与えられた。
父の死後、兄ヤロポルクが弟オレーグと争って殺害する事件が起こると、彼は977年に国外のスカンディナヴィアへ逃れたとされる。そしてヴァリャーグ人を率いて帰還し、ヤロポルクを破ってキエフ大公に即位した。即位の年は、『ルーシ年代記』では980年だが、11世紀後半の書では978年とされ、多くの書物は980年説を定説としている。進撃の途上で、ポロツク公ログヴォロドに娘ログネダとの結婚を求めたが、公女は「奴隷の子」との縁組を拒んだという。彼はポロツクを攻めて公と息子たちを殺し、ログネダを奪って妻とした。さらに、981年にポーランド公国からチェルヴェン諸都市を奪い、981年から982年にヴャチチ族の反乱を鎮め、983年にヨトヴィンギ族を従え、984年にラヂミチ族を従え、985年にヴォルガ・ブルガールへ遠征した。領土は父の代から倍増し、モスクワの東のウラジーミルの町も彼が建設したとされる。
治世の初め、彼はなお異教徒であった。英語版によれば、800人の側室と多数の妻を持ち、異教の神像や神殿を建てたという。980年頃には、キエフの丘に雷神ペルーンら6柱の神を祀る神殿を築き、近隣諸民族の神も加えた大規模な祭祀を行ったが、失敗に終わった。神々への公然の侮辱は民衆の怒りを招き、キリスト教徒のフョードルとその子が暴徒に殺されるなど、迫害も起こった。この出来事についてウラジーミルは後々まで思案し、政治的な考えも働いて、信仰の選び直しに向かったとされる。『原初年代記』によれば、986年に各宗教の宣教師がキエフに来て、987年、彼は家臣たちを遣わして諸宗教を調べさせた。コンスタンティノープルの礼拝を見た家臣たちは、「私たちは天上にいたのか地上にいたのかわかりませんでした」と報告し、神が人々と共におられるとしか言えないと述べた。
988年に彼は洗礼を受け、キリスト教を国教として導入し、異教の偶像を破壊させた。東ローマ皇帝バシレイオス2世の妹アンナと結婚して大公国の権威を高め、ビザンツ文化も取り入れた。12人の息子を各地に封じ、土着の勢力を抑えた。近隣との関係はおおむね平穏だったが、南方の遊牧民ペチェネグ人には悩まされた。晩年、ノヴゴロド公の息子ヤロスラフ1世が、キエフへの貢税2000グリヴナの支払いを止めて対立し、これを討つ準備の最中、キエフ近郊のベレストヴォで1015年に没した。
遺体は分割され、彼が建てた各地の教会へ送られて聖遺物として崇敬された。正教会から13世紀に列聖され、カトリック教会でも聖人とされる。祭日は7月15日である。19世紀のキエフ大学は、彼の名を冠し、ロシア帝国には聖ウラジーミル勲章も設けられた。その功績は、民族叙事詩ブィリーナや、修道士ヤコフの『頌詞』で称えられ、彼とともに東スラブのヴァリャーグ人の時代は終わり、キリスト教の時代が始まったとされる。
同じ年に亡くなった人物
- アルドゥイーノ・ディヴレーア (1015年没)
- Adelaide, Abbess of Vilich (1015年没)
- Lambert I, Count of Louvain (1015年没)
- エルンスト1世 (シュヴァーベン大公) (1015年没)
- ガヴリル・ラドミール (1015年没)
同じ地域に関係する人物
- ヤロポルク2世 (1139年没)
- イジャスラフ2世 (1154年没)
- エフィム・ズヴャギリスキー (2021年没)
- オリガ (キエフ大公妃) (969年没)
- ブレント・ルノー (2022年没)