伝記
セルギオス2世は、1001年から1019年までコンスタンティノープル総主教を務めた人物である。1019年7月に没した。生年は伝わっていない。
九世紀の著名な総主教フォティオス1世の親族とされ、フォティオスの甥ともいわれ、より年齢の面から見て大甥とする説明のほうがもっともらしいともされる。ストゥディオス修道院の修道士だったことから、ストゥディテス(ストゥディオスの人)と呼ばれる。マヌエル修道院の院長で、フォティオスが再建したこの修道院の院長のとき総主教に選ばれた。兄弟には、コンスタンティノープルの初代裁判官だったマギストロスのコスマスがいる。学識が高かったといい、総主教の座に就いたときはすでに高齢だったとされる。
就任の時期には諸説がある。998年とする説、999年とする説があり、アンティオキアのヤヒヤの記述によれば、バシレイオス2世の治世26年、つまり1001年1月11日より後だという。通説では1001年6月か7月とされる。前任のシシニオス2世の死後、三年ほど座が空いていたといわれ、シシニオス2世は単なる俗人だったとされる。
セルギオス2世は、フォティオスの方針を受け継ぎ、ビザンツ教会と帝国の利益の一致を重んじて、ローマ教皇庁に対抗する立場を取った。皇帝バシレイオス2世の税制には反対し、とくに、大土地所有者が貧しい者の相続人のいない土地や放棄された隣接地の税まで負担させられるアレレンギュオンの復活に抗議した。ブルガリアに勝利した皇帝にこれを廃止させると約束しながら、果たせなかったとも伝えられる。1004年には、名門貴族ロマノス・アルギュロスの娘マリアと、ヴェネツィア総督ピエトロ2世・オルセオロの子ヨハネスとの結婚を祝福した。またこの時期、教皇セルギウス4世が回勅で信条にフィリオクェの文言を用いたため、教皇の名は総主教座の聖歌に唱える名簿から外されたという。後世の伝説では、セルギオス2世と教皇セルギウス4世の対立として語られる。1019年7月に没し、後継にはエウスタティオスが選ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- スヴャトポルク1世 (1019年没)
- メルゼブルクのティートマール (1019年)
- フリードリヒ (モーゼルガウ伯) (1019年没)
同じ地域に関係する人物
- Mehmed Said Pasa (1914年没)
- ハリメ・スルタン (1623年没)
- Constantine Leichoudes (1063年没)
- シェフザーデ・マフムト (1603年没)
- オメル・パシャ (1871年没)