伝記
コンスタンティノス・レイクーデス(コンスタンティノス3世)は、コンスタンティノープルの生まれで、1059年から没年の1063年まで同市の総主教を務めた人物である。没したのは1063年8月9日か10日とされる。若いころはコンスタンティノープルの大学で学んで優れた教養を身につけ、のちに歴史家として知られるミカエル・プセルロスや、のちに総主教となるイオアンネス・クシフィリノスと同窓だった。イオアンネス・マウロプスとも親しく、その年長の友人にあたるとされる。これら四人は、1040年代から1070年代にかけてコンスタンティノープルの政治と文化で重要な役割を果たした、有力な若い学者・政治家の集まりに属していたという。
学業を終えるとレイクーデスは官職に就き、宮廷で急速に出世した。皇帝ミカエル4世の時代には、まだ比較的若いながら元老院に名を連ねていたとされる。のちにミカエル5世の最も近い助言者の一人となり、コンスタンティノス9世モノマコスの時代には、皇帝の財産を管理する宮廷の要職であるプロトヴェスティアリオスと、元老院の議長にあたるプロエドロスの地位を得て、意志の弱い皇帝のもとで事実上の宰相のような立場にあったといわれる。部下として宮廷に入ったプセルロスを庇護したのも彼だった。ところが1050年、経歴は突然中断する。皇帝モノマコスにすべての称号を奪われ、首都から追放されたのである。このとき彼を権力から遠ざけたのは、ヨハネス・ロゴテテスだったともいわれる。
この追放のころに修道士になったらしい。1050年代なかばには首都へ戻り、皇帝直属のマンガナ修道院の院長となった。ミカエル6世の治世には、反乱を起こした将軍イサキオス・コムネノスのもとへ交渉に赴いた使節の一人となったともいう。総主教ミカエル・ケルラリオスが失脚し、1058年11月から流刑の身となって没すると、1059年に院長レイクーデスが総主教に選ばれた。病を得て帝位を退くことも考えていたイサキオス・コムネノスが、彼を任命したと伝わる。
総主教としては、イサキオスが修道士となったあと、コンスタンティノス10世ドゥーカスの戴冠式に加わった。ローマ教会との関係では前任者の路線を引き継ぎ、各地の教会の首長を祈りで挙げる際に、ローマ教皇の名を加えなかった。ドゥーカス帝の時代には、ほかの学者たちとともに再び政務に関わったとされる。1063年に没すると、友人のクシフィリノスが後任となり、弔辞はプセルロスが述べた。東方正教会は彼を聖人とし、記念日を7月29日としている。
同じ年に亡くなった人物
- 仁宗 (宋) (1063年没)
- リヘザ・ロタリンスカ (1063年没)
- Catherine of Bulgaria (1063年没)
- グリフィズ・アプ・サウェリン (1063年没)
- ラミロ1世 (アラゴン王) (1063年没)
同じ地域に関係する人物
- アンドロニコス・ドゥーカス (ロマノス4世ディオゲネスの部下) (1077年没)
- ゼノン (東ローマ皇帝) (491年没)
- コンスタンティノス8世 (1028年没)
- キャーミル・パシャ (1913年没)
- Leyla Erbil (2013年没)