HISTORICAL PERSON · 1021年没

源頼光

平安中期の武将で、清和源氏の3代目。父満仲の地である摂津多田を継ぎ、摂津源氏の祖となった。藤原道長に仕えて財力を蓄え、後世は酒呑童子や土蜘蛛の退治説話で知られ、頼光四天王を従えたと伝わる。

生涯
1021年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

源頼光(みなもとの よりみつ、らいこうとも読まれる)は、平安時代中期の武将である。父は鎮守府将軍の源満仲、母は嵯峨源氏で近江守を務めた源俊の娘。満仲の長子で、清和源氏の3代目にあたる。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は摂津源氏と呼ばれた。異母弟には大和源氏の源頼親と、のちに武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。

生誕地は分からず、本拠の多田か、父が天延元年(973年)ごろには平安京の左京一条に邸を持っていたことから、その満仲邸ともいわれる。若いころの経歴も不明だが、同時代の中級貴族と同じく20歳前後で出仕し、満仲と同様に、摂関政治を行っていた藤原氏に臣従して官職を得、財力を蓄えたと考えられている。寛和2年(986年)ごろ、居貞親王(のちの三条天皇)が皇太子となったとき、春宮権大進に任じられた。正暦3年(992年)には備前守となったが、都にとどまっており、任国に赴かない遙任であったと思われる。春宮大進のころには朝廷の儀礼や年中行事に名が見え、藤原道長が主催した競馬にも加わっている。『日本紀略』によれば、永延2年(988年)9月に関白の藤原兼家が新邸を造って宴を開いたとき、馬30頭を贈った。

正暦元年(990年)、兼家の葬儀での道長の振る舞いに感心し、その側近として従うようになったと伝えられる。長保3年(1001年)には美濃守を兼ね、このときは遙任を示す記録がなく、任国へ赴いたと思われる。同じころ、隣国の尾張守となった大江匡衡とは、赴任に際して書状を交わすなど親交があったらしく、匡衡の妻の赤染衛門は頼光を詠んだ和歌を残している。但馬国、伊予国、摂津国の受領を歴任し、左馬権頭となって正四位下に昇り、後一条天皇の即位に際しては昇殿を許された。受領として蓄えた財で一条邸を構え、道長にたびたび多額の進物を贈って尽くした。道長の権勢が伸びるにつれ、側近の頼光も武門の名将、「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕えて武勇に優れた弟の頼信とともに、のちの清和源氏興隆の礎を築いた。歌人でもあり、『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に計3首が収められている。没年は68歳とも74歳ともいわれる。

評価は一様ではなく、父の武士団を継ぎ摂関家の警護もつとめたので武士の性格も否定できないが、藤原摂関家の家司としての貴族的な人物と評される傾向がある。一方、中世の文学では、坂上田村麻呂、藤原利仁、藤原保昌とともに伝説的な武人の4人組の一人に数えられ、『保元物語』や『梅松論』では保昌と並ぶ古来の勇者の代表格とされ、『平家物語』にも精兵の一人として名が挙がる。

後世の『今昔物語集』や、室町時代の『御伽草子』には、丹波国の大江山での酒呑童子の討伐や、土蜘蛛退治の説話が載る。説話では、渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武からなる頼光四天王が従う。なお『宇治拾遺物語』には頼光は登場しない。頼光が弟の頼信や四天王らとともに六人で摂津の大江山へ向かい、夷賊を討伐したという話もある。天橋立の成相寺には、寛仁元年(1018年)3月の日付で、頼光らしい名の花押を記した祈願文書があり、大江山の夷賊追討の勅命が示されているが、定説にはなっていない。酒呑童子を退治した伝承を持つ太刀に、東京国立博物館蔵の「童子切」と多田神社の「鬼切丸」があり、土蜘蛛を退けた伝承を持つ太刀「膝丸」も三口が伝わる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物

該当人物はまだありません。