伝記
ハーキムは、エジプトを支配したファーティマ朝の第6代カリフ(在位996年10月14日〜1021年2月13日)である。985年に生まれ、第5代カリフ・アズィーズの子として、幼くして位を継いだ。冷酷な専制君主であると同時に公正な名君でもあったといわれ、数々の奇行で知られるイスラム世界史上でも際立った個性の持ち主である。
即位の前、993年に父から後継者に指名されていた。即位に異論は出ず、王朝の安定を示すものとされる。幼い君主の後見はまず、王朝の盟友であるベルベル人のクターマ族の長ハサン・イブン・アンマールと、スラヴ人の宦官バルジャワーンのあいだで争われた。ハサンは政治を主導しようとして仲介役に任じられ、ベルベル人を優遇したので、バルジャワーンはダマスクス総督と結んでこれに対抗し、ハサンは失脚して殺された。バルジャワーンは宰相の任に就くと、ハーキムを監禁同然の生活に置いて政権を握ったという。三年ほどの後見のあいだに、ビザンツ帝国のシリア北部への侵入を退け、ティールスの反乱を鎮めた。ハーキムは成長すると、16歳のとき、散歩の途中でバルジャワーンを刺殺させた。トルコ人の間には、ベルベル人の陰謀を恐れる動揺が広がったが、ハーキムは、後見が重荷になったので殺して自ら統治するのだと公に説明し、臣下に服従の誓いを改めさせた。その後は気分のままに、極端な寛大さと残酷さのあいだを揺れ動く専制君主として君臨した。
ハーキムはイスマーイール派の教義を強調し、自らイマームとして教学と宣教を進めた。この派のための施設の建設や寄進を盛んに行い、カイロのハーキム・モスクをはじめ多くのモスクが建てられた。治世にはイスマーイール派が東のイラク、イラン、中央アジアにまで広がり、盟主としてのファーティマ朝の威信は高まった。学芸も保護し、カイロに教育・研究の機関を設けて私財を投じた。古代ギリシアの学問とバグダードの最新の伝統学問がカイロで研究され、自然科学の発展は目覚ましく、光学で後世に大きな影響を与えたイブン・ハイサムのような学者が出た。イブン・ハイサムはナイル川の治水を堰で行えるとする見解を伝え聞いたハーキムに招かれたが、実地に見て不可能と悟って謝罪し、代わりに公職を与えられた。しかし殺害を恐れて狂気を装ったとされ、ハーキムの死後に自由を得て研究に専念した。
厳格な信仰は、厳しい禁令と異教徒への抑圧にもなった。飲酒と歌舞音曲は一切禁じられ、没収されたワインはナイル川に流され、ブドウ園はすべて破壊された。船遊びや運河への立ち入りも禁じられ、浴場でも女性の入浴が禁じられて女風呂は閉鎖された。キリスト教徒には木の十字架、ユダヤ教徒には鈴を常に身に付けさせ、教会や修道院、シナゴーグは廃止を命じられて財産を没収された。1009年には聖墳墓教会までもが破壊された。多くの側近や高官、庶民が処刑され、過去のカリフたちの好物だったと聞いてモロヘイヤの食用を禁じるような気まぐれな命令も出した。みすぼらしい衣服で夜に供も連れず市中や郊外を歩き回る暮らしを送った。
1021年2月13日の夜、いつものように郊外へ出て砂漠を歩いていたハーキムは行方不明となった。数日後に短剣で刺された跡のある衣服が見つかったが、遺体は見つからなかった。晩年には神格化する教えを説く一派が現れ、彼らは失踪を、殺されたのではなく幽冥界に隠れたのだと信じ、「復活の日」に救世主として再臨すると説いた。この一派は公式教義から排斥され、エジプトを追われてシリアへ逃れ、ドゥルーズ派と呼ばれる集団を形づくった。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- ウンム・クルスーム (1975年没)
- Ahmed Fouad Negm (2013年没)
- ムウタスィム (1389年没)
- イブン・ユーヌス (1009年没)
- ガマール・アブドゥル=ナーセル (1970年没)