伝記
アガトクレスは、紀元前320年代から310年代の間に生まれ、紀元前284年ごろに処刑されたマケドニア系・テッサリア系の王子である。リュシマコスと、その最初の妻でアレクサンドロス大王の帝国の摂政アンティパトロスの娘であるニカイアとの間の子とされる。同腹のきょうだいには、妹のエウリュディケとアルシノエ1世がいた。ただし、母はオドリュサイ人の女マオリスだとする説もあり、ニカイアのほうが確からしいとされる。トラキア王(紀元前305年から)、のちマケドニア王(紀元前285年から)となるリュシマコスの長子であった。
イプソスの戦い(紀元前301年)の後のディアドコイ間の交渉の中で、アガトクレスはプトレマイオスとエウリュディケの娘リュサンドラと結婚した。同じとき、父のリュシマコスはプトレマイオスの別の娘アルシノエと結婚している。紀元前292年ごろ、アガトクレスは父に送り込まれてゲタイ人と戦ったが、敗れて捕虜となった。ゲタイ王ドロミカイテスは身代金を求めず、贈り物を添えて彼を父のもとへ送り返した。それでもリュシマコスは自らゲタイ人に向かって進軍し、自分も捕らえられた。ドロミカイテスは、身分の高い人質数人と、リュシマコスの娘との結婚を条件に、リュシマコスを解放した。ただしこの経緯には異説があり、捕らえられたのはアガトクレスだけだったとも、リュシマコスだけだったともいう。
紀元前287年ごろ、あるいは前286年から前285年にかけて、アガトクレスは、アナトリアに入ってリュシマコスからリュディアとカリアを奪おうとしたデメトリオス・ポリオルケテスに対して派遣された。この遠征では首尾よく成功を収め、デメトリオスを破って父の領地から追い払った。これにより彼は臣民の間で人気を集め、父の正統な後継者と見られるようになったという。また、ミュシアにあるアガトクレイアという都市は彼が建設したものだとする、ルイ・ロベールの説もある。紀元前300年ごろの貨幣に刻まれた文字がその根拠とされる。
しかしリュシマコスの継妻アルシノエ2世は、自分の息子たちに後継の座を与えようと、アガトクレスに対して策を巡らせたとされる。ユスティヌスによれば、息子が父に対して陰謀を企てていると夫に告げたのはアルシノエである。パウサニアスは、王妃がリュシマコスを促して息子を殺させ、自分の子らの継承に道を開いたと述べている。また、アルシノエにはアガトクレスから誘惑を退けられた私怨があったとほのめかす説もある。一方で、リュシマコスが息子の陰謀を信じ、自らの判断で動いたとする説もある。毒殺未遂に遭ったともいわれ、父は彼を牢に入れた。紀元前284年ごろ、アガトクレスは処刑された。リュシマコスの宮廷に身を寄せていたプトレマイオス・ケラウノスの手で殺されたともいう。
妻リュサンドラは子どもたちと、アガトクレスの異母兄弟アレクサンドロスを連れて国外に逃れ、シリアのセレウコス1世のもとに身を寄せた。リュサンドラの兄弟であるケラウノスも、セレウコスの宮廷へ去った。セレウコスは、この子殺しの行為を理由としてリュシマコスに宣戦した。アガトクレスの死は小アジアに深刻な混乱をもたらし、紀元前281年のコルペディオンの戦いでリュシマコスがセレウコスに敗れる結果につながったとされる。敗れたリュシマコスの王朝はそのすべての領土を失い、消滅した。
同じ年に亡くなった人物
- デメトリオス1世 (マケドニア王) (紀元前283年没)
- Amastris (紀元前283)
- カウティリヤ (紀元前283年没)
- ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテル (紀元前283年没)
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