伝記
ハインリヒ2世は、973年5月6日に生まれ、1024年7月13日に没したドイツ王(在位1002年〜1024年)、イタリア王(在位1004年〜1024年)、神聖ローマ皇帝(戴冠1014年)である。ザクセン朝(オットー朝)の最後の統治者となった。父はバイエルン公ハインリヒ2世、母はブルグント王コンラートの娘ギーゼラである。ドイツ王ハインリヒ1世の曾孫にあたり、バイエルン公としてはハインリヒ4世と数えられる。
父は皇帝オットー2世と、シュヴァーベン公領をめぐって争った。974年に反乱を起こして失敗し、インゲルハイムに幽閉され、脱出して再び反乱を起こして敗れた。オットー2世は父をバイエルン公の座から退け、978年4月にユトレヒト司教の監視下での追放に処し、バイエルンの南東部は切り離されてケルンテン公領となった。父の追放中、若いハインリヒはヒルデスハイムで暮らし、レーゲンスブルク司教ヴォルフガングからキリスト教の教育を受け、ヒルデスハイムの司教座聖堂学校で学んだ。皇帝自身が、聖職者にすれば帝国の統治に加われなくなると考えて、聖職者としての教育を受けさせたとされる。983年にオットー2世が没して父が釈放され、995年に父の後を継いでバイエルン公となった。
1002年、又従兄にあたる前王オットー3世が21歳で急逝した。独身で直系の後継者がいなかったため、各地の実力者が王座を狙った。6月7日にマインツで、大司教ヴィリギスの主導のもと、ハインリヒが国王に選ばれ、7月9日に戴冠した。ザクセン公やロートリンゲン公などは承認していなかったが、諸公領を巡回して、各地で改めて王としての承認を得た。1004年5月15日にはイタリア王として塗油を受けた。同年、ボヘミア公ヤロミールとともにポーランドと戦い、ボヘミア公領を帝国に組み込んだ形になった。1006年にはブルグント王ルドルフ3世が、後継者のない身から甥のハインリヒを継承者に定めたが、実際にはハインリヒが先に没したためブルグント王位は継がず、この取り決めは、のちにコンラート2世によるブルグント併合の道筋となった。オットー3世が古代ローマ帝国の復興を志したのに対し、ハインリヒはアルプス以北の帝国領の「刷新」に力を注いだといわれ、印章には「フランク王国の刷新」という銘が刻まれた。1014年2月14日には、ローマで教皇ベネディクトゥス8世から皇帝として戴冠された。イタリアには3度遠征し、そのうち2度は分離を図る反乱の鎮圧、1度は南イタリアの覇権を狙うビザンツへの対処であった。
治世を通じて、教会との結びつきを深めた。聖職者を世俗貴族への対抗勢力として用いるオットー朝の慣行を大きく広げ、教会への寄進や新しい司教区の設立で、帝国統治を固めた。非常に敬虔で、当時の教会の堕落を憂え、修道院改革を進め、教会人事にも介入したが、推挙されたのは高潔な人物が多かったとされる。ただし教会が皇帝に掌握されることへの懸念を生み、のちの叙任権闘争の萌芽ともいわれる。晩年にはポーランドとの初の全面戦争があり、帝国側が敗れて、1018年のバウツェンの講和でマイセンなどがポーランドの支配下に入った。
1024年、グローネで没し、バンベルクの聖堂に葬られた。皇后は聖クニグンデで、二人に子はなく、ザクセン朝は断絶し、コンラート2世が跡を継いだ。ハインリヒは、その敬虔さと教会への尽力により、1146年に教皇エウゲニウス3世によって聖人とされた。
同じ年に亡くなった人物
- アブド・アッラフマーン5世 (1024年没)
- ベネディクトゥス8世 (ローマ教皇) (1024年没)
同じ地域に関係する人物
- ダーヴィト・ファブリツィウス (1617年没)
- ヴェンツェル (ザクセン選帝侯) (1388年没)
- アンネ・フランク (1945年没)
- ルドルフ・フォン・イェーリング (1892年没)
- カール・フレンツェル (1996年没)