伝記
アブド・アッラフマーン5世は、1001年に生まれ、1024年に没した後ウマイヤ朝(コルドバ・カリフ国)のカリフである。本名はアブド・アッラフマーン・ブン・ヒシャームといい、カリフとしての称号はアル=ムスタズヒル・ビッラーフ、すなわち「アッラーに救いを求める者」であった。先代のカリフ、ムハンマド2世(アル=マフディー)の弟にあたる。数え方によって第9代、第10代、第14代などとされるが、在位は1023年から1024年のごく短い期間にとどまる。
即位の背景には、コルドバ・カリフ国の長い混乱があった。1009年に内乱が起こり、1016年にはアリー・ブン・ハンムードがウマイヤ家から政権を奪って、ハンムード家で最初の支配者となった。しかしその治世は2年足らずで終わり、弟のアル=カーシム・アル=マアムーンが後を継いだ。アル=カーシムは良い指導者で人気も高まったが、およそ3年半ののち、甥のヤヒヤー・ブン・アリーに廃位された。ヤヒヤーの虚栄と傲慢はコルドバの市民の目にすぐ明らかとなり、1年半で逃亡を余儀なくされた。そこでアル=カーシムが都に戻って再び王位に就いたが、6か月もたたないうちに、ハンムード家の混乱に不満を抱いた市民が蜂起して暴動を起こし、彼は二度目の逃亡に追い込まれた。
アル=カーシムが去ると、コルドバの市民は指導者の地位をふたたびウマイヤ家に戻すことに決めた。1023年12月2日に集会を開き、初代カリフであるアブド・アッラフマーン3世の子孫のなかから指導者を選ぶことを望んだ。まもなくヒシャーム・ブン・アブド・アル=ジャッバールの子アブド・アッラフマーンが選ばれ、新しいカリフ、アブド・アッラフマーン5世として宣言された。
即位したとき、彼はごく若い青年であった。有能な官吏を周囲に集めたものの、かつてのウマイヤ朝国家のような力と統一と権威を取り戻すことはできなかった。国庫が空だったため、ただちに中流・下層の市民から金を取り立てる必要が生じ、忠実な軍隊がなかったことからベルベル人の傭兵を雇うことになった。こうした措置は、2か月に満たないうちに、失業した職人たちの群衆が宮殿を襲う事態を招いた。群衆は別のウマイヤ家の王子、ムハンマド3世を新しいカリフに擁立した。新カリフが最初に求められた公務は、アブド・アッラフマーン5世を死に追いやることであったという。
こうして彼は1024年1月17日、都を揺るがした暴動のさなかに、従兄弟にあたるムハンマド3世の命令で処刑された。在位は2か月半ほどであった。さまざまな派閥がうごめく都で傀儡のような存在となり、絶え間ない騒乱を鎮められなかったと伝えられる。なお、この短命なカリフ位の間に、セビリャのアッバード家は独立した王朝を築く機会を得たとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝) (1024年没)
- ベネディクトゥス8世 (ローマ教皇) (1024年没)
同じ地域に関係する人物
- Juan Bautista Rico (1613年没)
- アリー・イブン・ハムード・アル=ナースィル (1018年没)
- ヒシャーム2世 (1013年没)
- ルイス・デ・ゴンゴラ (1627年没)
- ペドロ・アントニオ・デ・セバーヨス (1778年没)