伝記
フェルドウスィーは、サーマーン朝からガズナ朝の時代に活躍したペルシア詩人で、ペルシア語圏で最も偉大な叙事詩とされる『シャー・ナーメ(王の書)』の作者である。本名はアブー・アル=カースィム・マンスール・イブン・ハサン・アッ=トゥースィーといい、「フェルドウスィー」は「楽園の人」を意味する筆名にあたる。生年は934年とも940年ともされ、没年は1025年である。名前についても、確実に分かるのは「カースィムの父」の意の通称と筆名だけで、13世紀の著者ブンダーリーの記す形が最も信頼できるとされる。早くから「賢者」を意味する称号ハキームが添えて呼ばれてきた。
イラン北東部ホラーサーンのトゥースに近い村で、地主階層(デフカーン)の家に生まれた。12世紀初めの著者ニザーミー・アルーズィーによれば、トゥース近郊のタバラーン地区のバージュという大村の生まれで、土地からの収益だけで不自由なく暮らせるほど裕福であったと伝えられる。デフカーンは、ササン朝の時代に栄え、イスラームの征服後も勢力を保った地主層で、イスラーム以前の文化的な伝統を守ることを自らの務めと考えていた。若年期のことはほとんど分からないが、妻があり、その妻も同じデフカーンの出身で、読み書きができたらしい。息子が一人いたが、37歳で亡くなり、詩人はその死を悼む哀歌を『シャー・ナーメ』の中に挿入した。アラビア語は知っていたが、アラビア文学には通じていなかったとみられる。
若い時期はサーマーン朝の時代にあたり、同朝の王たちがペルシア語を保護したことで、ペルシア語とその思想は輝かしい時期を迎えていた。研究者は、彼が30歳のころに、アブー・マンスールの『シャー・ナーメ』を土台にして自作の創作を始めたとみている。『シャー・ナーメ』は30年以上を費やして、約6万対句の大作となった。完成はヒジュラ暦400年(西暦1009年または1010年)ともいわれ、995年に最初の版を書き終え、1010年に第2版を完成させたともされる。アラブ人に征服されたペルシア民族の精神を高めるために作ったといわれる。この作品で、イスラーム以前のイランの文化と、以後の文化を結び付けた。ゾロアスター教などの古い宗教の影響も指摘されるが、それは題材への忠実さによるとする研究者もいる。詩の材料の多くはアブー・マンスール版から慎重に選び、ペルシア人だけでなくトルコ人やインド人にも受け継がれる遺産をまとめたとされる。知恵をあらゆる善の源とみなし、知恵のある人は善悪を見分けて、この世の幸福とあの世の救いに至ると考えていたとされる。
ガズナ朝の君主スルターン・マフムードに『シャー・ナーメ』を献呈したが、その努力は評価されず、失意のうちに郷里で没したと伝えられる。マフムードを非難する風刺詩がフェルドウスィーの作であることは確かとされ、『ユースフとズライハー』の詩は彼の作とされてきたが、その根拠は乏しいと考えられている。遺体はタバラーンの市街にある、自らの所有する庭園に埋葬されたという。日本語では黒柳恒男訳の『王書』や岡田恵美子訳の『王書 古代ペルシャの神話・伝説』などが読める。
同じ年に亡くなった人物
- ムハンマド3世 (後ウマイヤ朝) (1025年没)
- Burchard of Worms (1025年没)
- ユーグ・ド・フランス (1025年没)
- マティルデ・フォン・ザクセン (979-1025) (1025年没)
- カースィム・マアムーン・ブン・ハンムード (1025年没)
同じ地域に関係する人物
- アリー・リダー (818年没)
- サアーリビー (1038年没)
- ナーディル・シャー (1747年没)
- アブル・マアーリー・ジュワイニー (1085年没)
- アブル・カースィム・クシャイリー (1072年没)