HISTORICAL PERSON · 1025年没

ボレスワフ1世 (ポーランド王)

ピャスト朝のポーランド公。オットー3世と会談してグニェズノ大司教座などに合意し、騎兵隊を強化してボヘミアやラウジッツ、マイセンに進出した。死の直前に王冠を受け、初代のポーランド王と認められた。

生涯
1025年没
死亡地
ポーランド共和国(ヴィエルコポルスカ県 / グニェズノ)
出生地
ポーランド共和国(ポズナン)
出典
世界地図
ポーランド共和国(ヴィエルコポルスカ県)

伝記

ボレスワフ1世は、ピャスト朝のポーランド公(在位992年から1025年)で、1025年にはポーランド国王となり、1003年から1004年にはボヘミア公も務めた。「勇敢王」と呼ばれる。ミェシュコ1世とボヘミア公ボレスラフ1世の娘ドウブラフカの子として、966年か967年に生まれた。母方の祖父の名を受けている。11世紀の墓碑は、父を「信仰を持たなかった」、母を「信仰厚い」と記しており、父が洗礼を受ける前に生まれ、ボレスワフ自身は誕生後まもなく洗礼を受けたと考えられる。7歳のときに伝統の断髪の儀礼を受け、その髪の一房がローマに送られたとされ、父が息子を教皇庁の保護下に置こうとしたことをうかがわせる。母は977年に没し、父はハルデンスレーベンのオーダと再婚した。そのころ、ボレスワフは小ポーランドの統治者となった。

992年5月25日に父が没すると、同時代の年代記作者ティートマールによれば、王国は多くの請求者に分けられる状態に置かれたが、ボレスワフは「狐のような狡猾さ」で国をまとめ、継母と異母兄弟を追放した。数年のうちに、全土の掌握を果たしたとみられる。995年ごろに最初の貨幣を出し、敬虔なキリスト教徒として、プラハのアダルベルトらの宣教を支援した。997年にアダルベルトが殉教すると、その遺骸を同じ重さの黄金で買い戻し、これによって帝国からの自立が強まった。

治世前半には、神聖ローマ皇帝オットー3世と同盟して関係を強めた。1000年3月、オットー3世はグニェズノを訪れてアダルベルトの墓に参り、ボレスワフと会談した。この「グニェズノの会議」で、皇帝はグニェズノに大司教座を置くほか、クラクフ、ヴロツワフ、コウォブジェクに司教座を置くことを認め、ボレスワフに貴族の称号と冠を授けたという。ポーランドは独自の教会組織をもち、ボレスワフは帝国への貢納を否認した。1002年にオットー3世が没すると、その従兄弟で後継者のハインリヒ2世と、1018年のバウツェンの和約に至るまで戦った。1018年の夏には、遠征でキエフを占領し、娘婿のスヴャトポルク1世を君主に据えた。伝承によれば、このときキエフの黄金の門を打って剣を欠けさせ、その剣「シチェルビェツ」が、のちのポーランド王の戴冠の剣になったという。

軍事に重きを置き、強力な騎兵隊を整えた。1003年から1004年にはチェコを征服し、自らボヘミア公となった。西ではラウジッツやマイセンを取り、征服に抵抗した住民は捕えて奴隷とし、イスラーム世界などに売り飛ばしたため、恐れられたという。1018年の和約で占領地の一部を得たが、西ポモージェは失った。一方でイタリアや東ローマ、さらに後ウマイヤ朝から進んだ文化を取り入れ、教会や修道院、要塞、水路の建設を後援して、最初のポーランドの貨幣単位グジブナを定めた。

最初の妻はマイセン辺境伯リクダックの娘、二番目はハンガリー人の女性で、どちらも解消された。三番目の妻エムニルダとの間に、のちの王ミェシュコ2世らが生まれた。1018年には、マイセン辺境伯エッケハルト1世の娘オーダと結婚した。1025年、死の直前に王冠を受けてポーランドを王国に昇格させたが、体調が悪く、正式な戴冠式は行わなかった。6月17日に没し、ポーランド初代の王と認められた。現在の20ズウォティ紙幣の表面には、その肖像が使われている。

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