伝記
リシャール3世は、1027年8月6日に没したノルマンディー公で、在位は1026年から1027年である。生年は997年から1001年ごろとも1008年ごろともされ、はっきりしない。父はノルマンディー公リシャール2世、母はブルターニュのジュディットで、その長男にあたる。治世は一年に満たず、弟の反乱で始まり、原因の分からない死で終わった。
父の治世のうちから、リシャールは政務に加わっていた。1020年ごろ、あるいは1026年とされる出来事では、父が、娘婿でのちのブルゴーニュ伯ルノー1世を救うため、息子リシャールに大軍を率いさせて送り出した。ルノーは当時オーセールの司教でシャロン伯でもあったユーグ1世に捕らえられ、監禁されていたのである。リシャールはシャロンへ向かう途中でメリナンドの城を包囲して焼き、やがてユーグは屈服してルノーを解放したと伝えられる。
1026年8月に父が没し、長男のリシャールが公位を継いだ。ところが継承してまもなく、弟ロベールが、国境にあるイエモワの領地に不満を抱いて兄に反旗をひるがえした。ロベールはファレーズの町を包囲したが、まもなく退却を余儀なくされた。リシャールは弟を捕らえたものの、忠誠の誓いを受けて解放した。ロベールはイエモワ伯領もそのまま保ったとされる。
1027年1月、リシャールはフランス王ロベール2世の娘アデルと結婚した。これはカペー朝との同盟を確かめるものであり、公はアデルに、シェルブールやブリクスの城、クタンスの町、アーグやバルフルールの港など、数多くの領地を寡婦産として与えた。二人のあいだに子はなかった。のちにアデルは、フランドル伯ボードゥアン5世と再婚している。ほかに、身元の分からない女性、あるいはデンマーク風の内縁の女性とのあいだに子がいたとされ、そのうち娘のアリスはバイユー子爵ラナルフと結婚し、息子のニコラはフェカンの修道士からルーアンのサン=トゥアン修道院長となって、1092年に没した。
リシャールは軍を解散してルーアンに戻るとまもなく、突然世を去った。このときまだ二十歳ほどだったとされる。死因は不明で、暗殺を疑う声もあった。ジュミエージュのギヨームは、毒によって若くして亡くなったと述べ、約百年後の1125年ごろに書いたロベール・ド・トリニは、弟のロベールを毒殺者として描いている。兄の死によって公位を得たのが、ほかならぬこのロベールだった。遺体はルーアンのサン=トゥアン修道院聖堂に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ギオルギ1世 (ジョージア王) (1027年)
- ロムアルド (1027年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョルジュ・エベル (1957年没)
- ジョージ・ブライアン・ブランメル (1840年没)
- ポール・コルニュ (1944年没)
- セザール・ルミンスキ (2009年没)
- ルイ=ニコラ・ヴォークラン (1829年没)