HISTORICAL PERSON · 紀元前279没

Ariarathes II of Cappadocia

カッパドキアの太守、のち王。養父の死後アルメニアへ逃れ、紀元前301年にカッパドキアを回復したが、セレウコス朝の宗主権を受け入れた。

生涯
紀元前279没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

アリアラテス2世は、カッパドキアの太守、のちに王となった人物である。ホロフェルネス(オロフェルネス)の子で、治世は紀元前301年から280年ごろとされ、没年は紀元前279年とも、紀元前275年ごろともいわれる。カッパドキアは、ペルシアの七人の一人アナファスにさかのぼる家系の太守領であった。

アレクサンドロス大王はダレイオス3世との戦いに気を取られてカッパドキアを後回しにしたため、アリアラテス1世は長く王として統治できた。アリアラテス1世はアリアムネスの子で、弟にホロフェルネスがいたが自身に子がなく、ホロフェルネスの子を養子とした。これがアリアラテス2世である。アリアラテス1世は巨額の資金を蓄え、現地兵と傭兵からなる歩兵3万、騎兵1万5000の大軍を整えた。しかしペルディッカスに敗れて4000人が殺され、5000人が捕えられ、その中に本人もいた。ペルディッカスは彼と親族の多くを串刺しなどの刑で殺し、カルディアのエウメネスをカッパドキア太守に据えた。ユスティヌスによれば、アリアラテス1世は敗れた後に、自らの妻子を殺し、奴隷もろとも家に火を放ったという。

養子のアリアラテス2世は、養父の処刑の後、少数の従者とともにアルメニアへ逃れた。ディオドロスによれば、その後ペルディッカスとエウメネスが死に、アンティゴノスらが互いの争いに忙殺されていたとき、アルメニア王アルドアテスから軍を得て故国に戻った。そして、マケドニア人の将軍アミュンタスを討ち、先祖伝来の領地を取り戻したという。時期は紀元前301年とも、紀元前280年ごろともされる。一説には、イプソスの戦いの後にセレウコス1世から半独立の支配者として認められたといい、またカッパドキアの独立の時代はこの勝利から始まったともされる。ただし、セレウコス1世の宗主権を受け入れざるをえなかったとする記述もある。

もっとも、この帰還の物語には疑問が呈されている。当時のアルメニアはマケドニア人の支配下にあり、ほかの事実ともうまく合わないからである。確かな痕跡はなく、支配は限られた範囲だったにすぎず、おそらく紀元前302年ごろ、イプソスの戦いの前にセレウコスに味方したことで得たものだろうとする見方がある。いずれにせよ、セレウコス1世とアンティオコス1世はカッパドキアを宗主権のもとに置いていた。キリキアの太守貨幣を手本にした、アラム語銘のある貨幣を彼のものとする説もある。

三人いた息子のうち長男が後を継ぎ、その名はアリアラムネス(アリアムネス)とされる。さらにその子がアリアラテス3世となった。

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