伝記
マルカム2世は、954年頃(958年頃とも)に生まれ、1034年11月25日に没したスコットランド王である。アルピン朝最後の王とされ、在位は1005年から1034年に及ぶ。ケネス2世の長男で、祖父はマルカム1世にあたる。母については、予言詩に「レンスターの女」と記され、レンスター王の娘だった可能性が指摘されている。他の王位継承権保持者を倒して即位したことから、「破壊者」を意味するフォラナッハの名で呼ばれた。アイルランドの年代記は彼をアルバの上王と記している。
即位の経緯は血なまぐさい。997年にコンスタンティヌス3世を殺したのは「マルカムの子ケネス」とされるが、ケネス2世は995年に没しているため誤りと考えられ、ケネス3世かマルカム2世自身のことだろうといわれる。マルカムが先王を殺したかどうかは定かでないが、1005年にストラサーン地方のモンジーヴァードの戦いでケネス3世を殺したことは確実とされる。残忍な性格だったとも伝えられる。
治世の最初の確実な記録は1006年の遠征である。ノーサンブリアのバンバラ支配下の地、古くのバーニシアに攻め入り、ダラムを包囲した。新王が武勇を示す慣習的な略奪だったかもしれないが、バンバラの支配者でノーサンブリアの太守でもあったウートレッドが率いる軍に大敗を喫した。1018年頃の二度目の戦いは成功した。ツイード川のほとりのカラムの戦いで、マルカム率いるスコットランド軍とストラスクライド王オウェイン・フォエルの軍が、ノーサンブリアのイングランド人に勝利したのである。ウートレッドの弟エアドウルフ・クデルがロージアンをマルカムに譲ったともいわれ、スコットランドはロージアンを併合した。
近隣には、ストラスクライド王、西海岸や島々のノルド・ゲール人の王たち、そして最も身近で危険な競争相手であるモレーの王たちがいた。伝統では、後継者は前王がアエド王の子孫の中から選び、家臣と教会が同意して決まるものだった。マルカムはこの慣行を無視し、北部で続く血の争いを終わらせようとしたこと、ノルマン人の例に影響を受けたことも背景にあったかもしれないが、王位を自分の血統に留める決意を固めた。男子がいなかったため、ライバルになりかねない有力者に娘たちを嫁がせ、その一族の忠誠を確保する策をとった。スコットランド固有のタニストリーと呼ばれる継承制度を長子相続に改めたともされるが、実際に効果を表すのは孫ダンカン1世の長男マルカム3世以降である。
長女ベソックは、アサル領主でのちダンケルド大修道院長となるクリナンに嫁いだ。1000年頃の結婚とされ、二人の子が後継者ダンカン1世である。もう一人の娘ドウナダは、初めオークニー伯シグルズと結婚してトールフィンを産み、夫の死後はモレー領主フィンレックと再婚してマクベスを産んだとされる。ただしトールフィンの母については、北欧のサガの伝承に出るマルカムがモレーのマルカムを指す可能性もある。マクベスとの関係は、14世紀の年代記作者ウィントゥーンが「三番目の娘」の嫁ぎ先がモレーのフィンレックだと述べることなどに拠る。1034年11月25日、マルカム2世はグラームズの砦近くで反対派に殺害された。29年に及ぶ治世は、初期スコットランドの王としては珍しい長さだった。娘は二人しかおらず、王位は娘たちの息子らが継承することになった。
同じ年に亡くなった人物
- エッツォ (ロートリンゲン宮中伯) (1034年没)
- ロマノス3世アルギュロス (1034年没)
- ミェシュコ2世 (ポーランド王) (1034年没)
- オルドジフ (1034年没)
- ディートリヒ1世 (ラウジッツ辺境伯) (1034年没)
同じ地域に関係する人物
- クロード・ボーズ=ライアン (第14代ストラスモア=キングホーン伯爵) (1944年没)
- ジョン・ボイド・オア (1971年没)
- ドナルド3世 (スコットランド王) (1099年没)
- ジェームズ・カーネギー (第3代ファイフ公爵) (2015年没)