伝記
トリーアのシメオン(シラクサのシメオンとも)は、1035年にドイツで没した修道士であり隠修士である。東方正教会では5月1日を祝日として聖人に数えられ、カトリック教会、とくにドイツでも崇敬されている。
10世紀末ごろ、アラブ人が支配していたシチリアのシラクサで、ギリシア人の父とカラブリア出身の母のもとに生まれた。父はビザンツ軍の兵士だったことがあり、七歳になった息子をコンスタンティノープルへ送って、母語であるギリシア語の読み書きを学ばせた。成長するにつれて宗教的な生活を志すようになり、エルサレムの聖墳墓教会への巡礼に出た。その後七年間は巡礼者を聖地へ案内したが、やがて倦み、隠修士として生きる道を選んだ。
ヨルダン川の岸辺の塔に住む聖なる隠修士の噂を聞くと、その召使いとなり、塔の下の部屋で暮らしながら隠修生活を学んだ。そこを去らねばならなくなると、『教父伝』を繰り返し読んで、隠修士になるにはまず修道院で修行すべきだと悟った。そこでベツレヘムの聖母マリア修道院に入って修道士となり、二年後には名高いシナイ山の聖カタリナ修道院に移った。この共同体にいるあいだに助祭に叙階された。数年間仕えたのち、院長の許しを得て紅海の岸の小さな洞窟に独りで住みついた。毎週日曜日に修道士がパンを運んでくれたが、二年後、船乗りに煩わされ、運ぶ修道士の疲れも見て、修道院へ戻る決心をした。院長の命でシナイ山頂の荒れた修道院を再建したが、なお隠修の望みを抱き、姿を消して砂漠に場所を見つけた。しかしまもなく見つかり、呼び戻された。
1026年、院長はシメオンを、修道院の用件でフランスのルーアンにいるノルマンディー公リシャール2世のもとへ遣わした。ところがナイル川を下る途中、船が海賊に襲われて乗組員が殺され、シメオンは水に飛び込んでかろうじて命拾いした。泳ぎ着いた小さな村では、話せるコプト語、シリア語、アラビア語、ギリシア語、ラテン語のどれも通じず、住民がキリスト教徒かどうかもわからなかった。やがてアンティオキアにたどり着き、エルサレムから戻る約七百人の巡礼団に加わった。その中にはトレー修道院のドイツ人院長エーベルヴィンもいた。一行はベオグラードでハンガリーの役人に先へ進むのを阻まれ、ローマ経由でフランスに戻った。シメオンはルーアンに着いたが、リシャール公はすでに世を去っていた。それでも使命を果たし、フランスとドイツを巡ってエーベルヴィンを訪ね、トリーアへも行った。
トリーア大司教ポッポ(在任1016年〜1047年)はエルサレム巡礼を計画しており、シメオンに会うと同行を誘った。1028年から1030年にかけての旅でエルサレムに着いたが、シメオンはエジプトの自分の修道院には戻らず、ポッポとともにトリーアへ帰った。そして、ローマ時代の大門ポルタ・ニグラに隠修士として住みたいと願い出て許され、1030年11月29日、聖アンデレの祝日に、聖職者と民衆の前で、門の塔の高所にある独房に閉じ込められた。その直後、大洪水が町と周辺を襲い、人々はシメオンを魔術師と思って独房に石を投げつけ、窓を壊した。それでもシメオンは祈りと断食を続け、悪魔の襲撃を退けたと伝えられる。パンと水と豆だけの食事で、眠らぬよう腕を広げて立ったまま祈った。1035年6月1日に没し、望んだとおり独房に葬られた。ほどなく墓で奇跡が報告され、病人や貧者が登れるよう梯子が掛けられた。エーベルヴィンはポッポに促されて伝記を書き、ポッポはこれを教皇ベネディクトゥス9世に送った。1042年に列聖され、ポッポは跡地に修道院を建てた。
同じ年に亡くなった人物
- スヴェイン・クヌートソン (1035年没)
- エストリッド (1035年没)
- 犬のソーリル (1035年没)
- ヤロミール (ボヘミア公) (1035年)
- ボードゥアン4世 (フランドル伯) (1035年没)
同じ地域に関係する人物
- クレメンス・アウグスト・フォン・バイエルン (1761年没)
- イーダ・ノダック (1978年没)
- クリスティアン2世 (プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト公) (1717年没)
- フリッツ・シュトラスマン (1980年没)
- ルディ・グーテンドルフ (2019年没)