伝記
後一条天皇は、日本の第68代天皇である。1008年10月12日(寛弘5年9月11日)に生まれ、1036年5月15日(長元9年4月17日)に崩御した。諱は敦成といい、敦成親王の名でも呼ばれた。一条天皇の第二皇子で、母は藤原道長の娘で中宮の彰子である。同母の弟に、のちの後朱雀天皇がいる。名の後一条は、父の一条天皇にちなみ、「後」は「のちの」の意で、後世には一条天皇の二世などと呼ばれた例もある。
その誕生のようすは「紫式部日記」に詳しく記されている。道長にとっては待ち望んだ外孫の皇子の誕生であり、のちの一族の栄華の初花となった。誕生から50日の祝いの場には、父の道長や女房の紫式部が居合わせた姿が、13世紀の絵に描かれている。
1016年(長和5年)、三条天皇の譲位を受けて践祚し、数え8歳で即位した。幼い天皇だったため、道長が摂政となって権勢を振るった。1017年には、三条天皇の長男の敦明親王が皇太子に立てられたが、皮膚の病にかかり、道長の強い圧力もあって辞退した。代わって弟の敦良親王が皇太子となった。同じ年には、道長が石清水八幡宮に参詣し、淀川を15艘の舟に分かれて下る途中、一艘が転覆して30人以上が亡くなる事故も起きた。道長はこの年の末に太政大臣に上った。在位中の摂政、関白には、道長のほか、その子の藤原頼通も名を連ねている。
后は、道長の娘で天皇より九つ年上の叔母にあたる藤原威子で、中宮となった。外戚の地位を藤原氏の御堂流以外に渡すまいという頼通と母の彰子の意向もあり、この時代には珍しく、ほかの妃を持たなかった。皇子女は章子内親王と馨子内親王の二人の内親王のみで、世継ぎの皇子には恵まれなかった。章子内親王は後冷泉天皇の中宮に、馨子内親王は賀茂斎院を経て後三条天皇の中宮になった。
天皇は数え29歳で崩御した。『栄花物語』には水を飲みたがる症状や痩せていく症状が記されており、糖尿病によるものと考えられている。突然の崩御だったため、譲位の儀式が間に合わなかったという。一方、『日本紀略』や『今鏡』では、遺詔により喪を秘して弟の敦良親王への譲位の儀を行ったとされる。これは、在位中に天皇が崩御した場合に、喪を秘して譲位の儀を行い、その後に上皇としての葬儀を行う慣例の先駆けとされる。陵は京都市左京区吉田神楽岡町の菩提樹院陵である。
同じ年に亡くなった人物
- アルフレッド・アシリング (1036年没)
- Mstislav of Chernigov (1036年没)
- ヒシャーム3世 (1036年没)
- アブー・ナスル・マンスール (1036年没)
- ザーヒル (1036年没)