伝記
伏見天皇は、1265年(文永2年)4月23日、後深草上皇の第二皇子として生まれた第92代天皇である。諱は熙仁といい、母は左大臣洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院)である。誕生のころ天皇は後深草の弟の亀山天皇で、幕府の承認もあって亀山の子孫に皇位が伝わることが決まりかけていた。1274年に亀山が皇子の後宇多天皇に譲位すると、後深草は出家しようとしたが、これに同情した執権北条時宗が救済に乗り出し、熙仁は1275年に親王となり、同年11月5日に後宇多の皇太子となった。皇太子のころの熙仁は『日本書紀』や『古今和歌集』の講義を聞き、愛読書の『源氏物語』を近臣と語り合った。京極為兼から和歌の指導を受け、このころから和歌の新しい歌風を探していた。
1287年(弘安10年)10月、幕府の要請で熙仁は践祚し、父の後深草が院政を始めた。1289年には第一皇子の胤仁親王(のちの後伏見天皇)が皇太子となり、これを受けて亀山は出家した。1290年3月には二条富小路内裏に武士が乱入する天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起き、大覚寺統の関与が疑われた。伏見と義兄の西園寺公衡は亀山の重い処分を主張したが、後深草が亀山の関与に触れなかったため、亀山は告文を幕府に送って無事に済んだ。同年7月、後深草から政務を譲られて伏見の親政が始まったが、後深草の近臣や、平頼綱の側近の禅空が朝廷の政務や裁判に口を出した。伏見はこれを幕府に訴えて、禅空が関わった裁きをすべて無効とし、後深草の近臣らを解官させた。
1292年、訴訟の手続きを定めた新制「正応法」を出し、1293年6月1日には訴訟制度の大改革を行った。議定を国政を審議する「徳政議定」と所領の訴訟を審議する「雑訴議定」に分け、記録所に「庭中」を新設し、再審を受け付ける「越訴奉行」も置いた。この改革は大覚寺統の廷臣にも絶賛され、研究者の美川圭は、これで治天の君の権力が回復したと指摘する。同年8月27日、かねて勅撰集を企てていた伏見は、二条為世や京極為兼らを召して撰集の方針を下問した。
1298年1月、為兼は陰謀の企てがあるという讒言で六波羅探題に捕らえられ、のちに佐渡に流された。同年7月22日、伏見は胤仁親王への譲位を余儀なくされ、新たな皇太子には後宇多上皇の皇子邦治親王(のちの後二条天皇)が立った。1301年には後伏見も退位し、大覚寺統が復権した。伏見は後伏見の弟富仁親王(のちの花園天皇)の立太子を主張し、幕府に認められた。1303年に為兼が帰京すると、伏見と為兼の和歌は京極派として確立した。1308年に後二条が崩じて花園が践祚すると、伏見の第二次院政が始まり、1309年に「延慶法」を定め、1312年には為兼を撰者として勅撰集『玉葉和歌集』が成立した。1313年7月、後伏見に量仁親王(のちの光厳天皇)が生まれ、10月に伏見は政務を譲って出家した。しかし完全に隠居はせず、後伏見に意見を述べたため、後伏見は翌年5月に政務の返上を表明するまでになった。
1315年、為兼は西園寺実兼の讒言で再び捕らえられ、土佐に流された。伏見も倒幕を企てているという噂が絶えず、伏見は幕府に告文を送って無実を主張した。これを好機として後宇多上皇は花園の譲位を幕府に主張し、1317年4月、幕府は両統の協議を申し入れた(文保の和談)。示された案が大覚寺統に有利だったため持明院統は受け入れなかった。その最中の9月3日、伏見は持明院殿で崩御した。53歳だった。翌1318年2月、花園は尊治親王(のちの後醍醐天皇)に譲位した。伏見は和歌と書に優れ、「書聖」とも称された。
同じ年に亡くなった人物
- マドヴァ (1317年)
- ヴィオランテ・ディ・モンフェラート (1317年没)
- ロベール (クレルモン伯) (1317年没)
- Agnes of Montepulciano (1317年)
- ジョヴァンニ・ピサーノ (1317年(推定))