HISTORICAL PERSON · 紀元前1500没

カシュティリアシュ3世

15世紀のバビロニアのカッシート王とされる人物。アッシリアの同時代王名表、系譜を記した碑文、初期王年代記の記述から知られるのみである。

生涯
紀元前1500没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

カシュティリアシュ3世は、紀元前15世紀のバビロニアを治めたカッシート朝の王とされる人物である。ただし王であったことを示す証拠は状況証拠にとどまり、その存在はアッシリアの「同期王名表」、記念碑的な碑文の写し、そして「古王年代記」の記述から知られるだけである。バビロニア第3王朝(カッシート朝)に属し、同王朝の15代目の王とする説もある。治世は紀元前1500年ごろから1470年ないし1450年ごろとされるが、正確な在位期間は不明で、年数も伝わっていない。

王名表では、アッシリア王アッシュル・ナーラーリ1世と並ぶ21行目の人物がこの王かもしれないとされるが、その前は欠損し、後の名も保存が悪い。古王年代記には「カッシート人カシュティリアシュの兄弟ウラム・ブリアシュ」と「カシュティリアシュの子アグム」の二か所に名が出る。いずれの箇所でも王の称号はつかないが、この年代記ではサムス・ディタナのように称号がなくても王であった人物がいるため、王位を否定する根拠にはならない。

近年公表された記念碑的な碑文の写しは、彼がスムンダル運河を掘削したことを記念し、ブルナ・ブリアシュ1世の子で、アグム2世の孫であるという系譜を裏づけている。碑文には、銀のすきと籠を儀式で用いたこと、それらがのちにエンリル神の神殿に納められて展示されたこと、さらにヤムトバルの人々と土地を動員して掘削させたことが記される。彼は「エンリルの総督(シャッカナク)」と称されているが、この称号と、碑文を損なう者への手の込んだ呪いの文言から、王であったと考えられる。この事業は、ヒッタイトの侵攻や度重なる戦乱で傷んだ灌漑施設を立て直す政策の続きだったとも、またエンリル神殿をはじめとする神殿の再建と維持に多くの資金を出したともいわれるが、これは推測を含む。

彼の治世に、兄弟のウラム・ブリアシュがカッシート・バビロニアの軍勢を率いて「海の国」に攻め入り、最後の王エアガミルを倒して自ら海の国の王を称した(紀元前1460年ごろとされる)。これによってバビロニア全体がカッシート朝の支配下に入ったと説明される。カシュティリアシュ自身はその約10年後に没したとされ、王位は兄弟のウラム・ブリアシュが継いだ。一方で、息子のアグム3世がバビロニア王になったとする記述もあり、継承の順序は研究者によって見方が分かれる。

名の意味については、ランツベルガーが「強い息子」と解釈した。彼はこの名を、アグムの名と同じく、祖父から長子の孫へ受け継がれる「主導名」とみなし、この名の既知の持ち主は三人で、確実にバビロニアを治めたのは3世だけだとする。

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