伝記
ディルク3世は、ホラント伯、当時の呼び名では西フリースラント伯を務めた人物である。982年ごろ、あるいは980年ごろに生まれ、1039年5月27日に没した。聖地巡礼を行ったとみられることから、エルサレム巡礼伯と呼ばれた。在位は993年から1039年とも、995年から1039年ともされる。
父はホラント伯アルヌルフ、母はリウトガルト・フォン・ルクセンブルクで、母は神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の皇后クニグンデの姉妹であった。ディルクは幼くして父の跡を継いだため、幼年期は母の摂政下に置かれた。摂政は995年から1005年まで続いたともいわれる。母の死後、フリース人は若い伯を認めようとしなかったが、伯は彼らに和平条約を結ばせ、保護の代わりに年収入の十分の一を納めさせたとされる。この伯領は1101年ごろまで西フリースラント伯領と呼ばれていた。当時の西フリースラントは、現在のオランダとは大きく様子が異なっていた。領土のほとんどは無人の干潟と湿地で、人が住んでいたのは海岸の砂丘と川の谷だけであった。1009年にはノルマン人が来襲し、商業都市ティールと聖ワルブルガ修道院を略奪したが、ヘルダーラント総督ゴドフロワの軍が近づくと、豊かな戦利品を抱えて急いで撤退した。翌年には再びユトレヒトを襲ったが、司教アンスフリートへの敬意からか、町に害を加えずに引き上げたという。
1018年以前のディルクは、ハインリヒ2世の家臣の中でも小さな存在にすぎなかったが、その領地は戦略上の要地にあった。ラインのデルタに位置するユトレヒトはドイツ王国で最大の交易都市であり、商人が北海に出るには伯の領内を通らねばならなかったからである。ディルクはマース川流域で勢力と所領の拡大に努め、ユトレヒト司教との争いの中で、いくつかの領地を奪った。やがてフラールディンゲンに要塞を築き、皇帝の許可なく通行税を引き上げた。メルウェデ川沿いにドルドレヒトの要塞を築いたとも伝わる。これは司教とティールの商人の双方に不利益となり、商人たちはディルクの臣下による攻撃を皇帝に訴えた。
皇帝はディルクから権力を取り上げることを決め、領地をユトレヒト司教に譲り渡した。ロートリンゲン公ゴドフロワ1世らが率いる大規模な帝国軍が新しい要塞へ向かったが、1018年7月29日のフラールディンゲンの戦いで、帝国軍は沼地に迷い込み、そこを自在に動けるディルクの兵に敗れた。公ゴドフロワは捕らえられた。ディルクは領地を保ったばかりか、課税の継続も認められ、西フリースラントへの支配と商船への課税権が公に認められたとされる。司教もこの隣人と和解した。
ディルクは聖地への巡礼も行ったとみられ、時期は不明ながら、1030年ごろではないかとする説もある。妻のオテレンディスは993年に生まれ1044年に没したとされ、ザクセン公ベルンハルト1世の娘と考えられている。二人の間には、のちにホラント伯となるディルク4世(1049年没)とフロリス1世(1061年没)、カトレンブルク伯ディートリヒ1世の妻となるベルトラーダ、ローン伯エンモの妻となるスワンヒルデが生まれた。1039年にディルクが死去すると、帝国軍は領地を得るためホラント伯領を何度か占領した。のちに強力なフランドル伯ロベール1世が、ディルク3世の孫で自らの継子にあたるディルク5世が権力を回復するのを助けた。
同じ年に亡くなった人物
- コンラート2世 (ケルンテン公) (1039年没)
- コンラート2世 (神聖ローマ皇帝) (1039年没)
- ウード・ド・ポワティエ (1039年没)
- アダルベロ (ケルンテン公) (1039年没)
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同じ地域に関係する人物
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- ヤン・ファン・デル・ヘイデン (1712年没)
- J・ベルンレフ (2012年没)
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