伝記
ウンスリーは、10世紀後半から11世紀前半にかけて活動したペルシア語詩人で、正しくはアブルカースィム・ハサン・ウンスリー・バルヒーという。ガズナ朝の宮廷に仕え、スルターン・マフムードのもとで「詩人たちの王」の称号を得た。日本語では「桂冠詩人」と意訳されることもある。
生涯についての情報は、ほとんどが「アフバール」と呼ばれる伝聞や噂話に基づいている。主な情報源には、ウンスリーより2世代ほど後の詩人マヌーチヒリー、1世紀ほど後のニザーミー・アルーディー・サマルカンディー、さらにアウフィーなどの著作があり、15世紀の詩人伝作家ダウラトシャーも伝える。伝聞によれば、ウンスリーは中央アジアのバルフに生まれ、早くに孤児となり、若いころは商売をして身を立てていたという。生年は961年ごろとされるが、970年か980年ごろに生まれたとする説明もある。ダウラトシャーは、商売の旅の途中で追剥ぎに身ぐるみをはがされたという話や、アブルファラジ・スィズジーという詩人の弟子であったという話を伝えるが、前者はアラビア文字の綴りが似た別人の名を読み誤った誤伝であり、後者も根拠のない説である。
詩人としての経歴は、スルターン・マフムードの弟で、ホラーサーン地方の司令官であったアミール・ナスルに詩才を見出されたときに始まる。アミールはウンスリーに経済的な庇護を与え、さらにマフムードに紹介した。詩才はすぐに認められ、「詩人たちの王」の称号を得た。この称号の持ち主は宮廷に仕える他の詩人を指導監督する権能を持つと解されるが、ウンスリーがフェルドウスィーの詩才を試したという後世の話は、楽しい空想の産物にすぎないだろうとされる。
ウンスリーはマフムードの「飲み友達」あるいは「御伽衆」として酒宴への同席を許され、軍役にも同行して、その軍功をカスィーダ(頌詩)で謳い上げ、スルターンの名声を不滅のものにした。スルターンは惜しみなく褒美を与えたとされるが、誇張かもしれないという検証もある。マフムードには寵愛する小姓アヤーズがいた。あるとき酔ったマフムードがアヤーズの房毛を切り落としてしまい、ひどく不機嫌になったが、ウンスリーが即興でルバーイー(四行詩)をつくると機嫌を直し、褒美に宝石を与えたという。この逸話は、宮廷での彼の立場をよく示している。マフムードの没後も宮廷にとどまり、1031年9月21日の犠牲祭の日には、新しいスルターンから1000ディーナールの金貨を与えられたと伝えられる。ルーダキーと並んで、経済的にもっとも成功したペルシア語詩人の双璧とされる。この日付が活動の確認できる最後で、以後の足跡は没年も含めて定かではない。詩人が別の詩人の死に寄せた哀悼歌に「老いたるウンスリー」という一節があり、これに基づいてダウラトシャーらは没年を1039年か1040年とする。一方、ほかの詩人伝作家は1049年か1050年と推定している。
作品のうち詩集は30,000行を含んでいたというが、伝わる最古の写本はサファヴィー朝期のもので、現存するのは当時の約10分の1にすぎない。1984年の詩集には、カスィーダ70作品、ルバーイー76作品などで計3,519行が収められている。『ヤミーヌッダウラの宝物』と総称される3つのマスナヴィー(叙事詩)のうち、1つの一部の写本が1950年ごろにパキスタンで発見され、古代ギリシア小説を基にした『ヴァーミクとアズラー』と判明した。これは11世紀にビールーニーがアラビア語に、16世紀にスレイマン1世の求めでトルコ語に訳されたが、前者は散逸した。
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