伝記
ヨハン・ヤコブ・バルマーは、1825年5月1日にスイスのラウゼンで、裁判長ヨハン・ヤコブ・バルマーとエリザベス・ロール・バルマーの長子として生まれた数学者、物理学者である。学生時代から数学に優れ、大学でも数学を専攻した。ドイツのカールスルーエ工科大学とベルリン大学で学び、サイクロイドの研究で1849年にバーゼル大学から博士号を取得した。その後の人生のほとんどを、バーゼルで女子校の教師として過ごし、バーゼル大学で授業を行うこともあった。1868年、43歳のときにクリスティーン・ポーリン・リンクと結婚し、夫婦は6人の子供に恵まれた。
数学者としては大きな業績を残せなかったが、1885年に発表した、水素原子の線スペクトルを記述する実験式によって知られるようになった。60歳のときの仕事で、同じバーゼルのエドゥアルト・ハーゲンバッハの示唆により取り組んだものである。アンデルス・オングストロームが行った水素の線の測定を用いて分析し、線の波長がある公式に従うことを見いだした。その式は、n=2、h=3.6456×10のマイナス7乗メートルとして、mを3、4、5、6と変えたときの波長を与えるものである。1885年の発表では、このhを「水素の基本数」と呼んだ。
バルマーは次に、この公式を用いてm=7の場合の波長を予測した。すると、397ナノメートルの波長の線はすでにオングストロームが観測していたことを、すぐに知らされた。バルマーの同僚である、ヴォーゲルとハギンズの二人は、白い星の水素のスペクトルに、バルマー系列のほかの線が存在することを確かめて、大いに満足したという。
のちにバルマーの公式は、ヨハネス・リュードベリが見いだした、より一般的な式の特別な場合であることが明らかになった。リュードベリ定数を用いたその式で、n1が2の場合がバルマーの公式にあたる。バルマーの公式とバルマー定数はn=2のときだけ有効であったが、リュードベリ(1888年)と、スイスの物理学者ヴァルター・リッツ(1903年)の仕事によって、すべての整数に一般化することができた。他の系列も予測どおり、実験で確かめられ、1908年にパッシェン系列、1916年にライマン系列、1922年にブラケット系列、1924年にプフント系列が見いだされている。
しかし、これらの式がなぜ成り立つのかは、ニールス・ボーアが1913年にボーアの原子模型を考え出すまで明らかにならなかった。バルマーはそれを待たずに、1898年3月12日にバーゼルで死去した。月のクレーターのひとつは、彼の姓にちなんで命名され、その直径は100キロメートルを超える。バルマー系列は、天文学者が星や星雲の中に水素があることを確かめる助けになっている。銀河のスペクトルのバルマー線の位置のずれから赤方偏移を測ることができ、宇宙の膨張を示す情報となる。また星のスペクトルのバルマー線からは、その星の温度や組成などを知る手がかりも得られる。
同じ年に亡くなった人物
- ゲオルク・エーバース (1898年没)
- リュシアン・プティパ (1898年没)
- ジョサイア・ラティマー・クラーク (1898年没)
- エドワード・バーン=ジョーンズ (1898年没)
- オットー・フォン・ビスマルク (1898年没)
同じ地域に関係する人物
- ヤーコプ・ヴァッカーナーゲル (1938年没)
- パウル・ヘルマン・ミュラー (1965年没)
- オットー・フランク (1980年没)
- タデウシュ・ライヒスタイン (1996年没)
- ゼバスティアン・ミュンスター (1552年没)