伝記
パウル・ヘルマン・ミュラーは、1899年1月12日にスイス北部ゾロトゥルン州のオルテンで、ゴットリープとファニーの子として生まれた化学者である。四人きょうだいの長子で、父はスイス国鉄の管理職を務め、一家は最初レンツブルクに、続いてバーゼルに移り住んだ。小学校のころから小さな実験室を持ち、写真の乾板を現像したり無線機器を作ったりしていた。1916年に成績不良のため学校を離れ、実験助手として働きはじめた。翌年にはロンツァ社の電気工場の研究所で助手の化学者となり、1918年に学校へ戻って、1919年に卒業すると、同じ年にバーゼル大学に入学した。化学を専攻し、植物学と物理学を副専攻とし、はじめは無機化学をフリードリヒ・フィヒターに学び、1922年からはハンス・ルーペの有機化学研究室で助手を務めた。1925年に「不斉メタキシリジンと誘導体の化学的、電気化学的酸化の研究」で博士号を取得し、最優秀の成績で卒業している。
1925年5月から、バーゼルのガイギー社(現ノバルティス)の染料研究所で研究者として働きはじめた。最初の仕事は合成染料や天然染料、皮なめしに使う薬品の研究で、合成なめし剤の製品化につながった。1935年、同社が蛾などによる衣服の食害を防ぐ物質と、植物保護の研究を始めると、ミュラーは自然と植物への愛着から、とくに植物保護に関心を持った。1937年にはロダン化物やシアン酸塩をもとにした新しい化合物の合成法で特許を取り、殺菌剤としても殺虫剤としても働くことを示した。つづいて、水銀系の殺菌剤より安全な種子消毒剤を開発した。こうした成功ののち、殺虫剤の開発を任された。当時あった殺虫剤は、高価な天然物か昆虫に効かない合成物で、安価で効くのは砒素化合物だけだったが、これは人間や哺乳類にも毒だった。昆虫と哺乳類では化学物質の吸収の仕方が違うことに気づき、昆虫だけに毒な物質があるはずだと考えた。目標は、できるだけ多くの昆虫に素早く強く効き、植物や温血動物にはほとんど害のない接触性の殺虫剤で、安定で、長持ちし、安く作れるものだった。
食料不足が起きていたスイスで作物の虫害を抑える必要があったことや、ロシアで広がった発疹チフスの流行が、動機になったという。4年にわたる探索ののち、1939年9月に目的の物質、DDTを見出した。DDTは1874年にドイツで合成されていたが、強力な殺虫効果に気づいたのはミュラーである。昆虫などの節足動物にだけ毒性を示し、ヒトや家畜、農作物には無害で、安定で無臭、散布にも適していた。1942年にはゲザロールの名で市販された。効果がはっきりしたのは、1943年に連合軍がイタリア南部のナポリを占領したときである。発疹チフスが流行しており、1944年1月、ナポリ市民全員にDDTを散布してシラミが全滅し、流行は収束した。薬物によって発疹チフスの流行を抑えたのは、これが最初だったという。
戦後DDTは農薬としても使われたが、すぐに耐性のある昆虫が現れた。また、安定で環境に残り、脂溶性のため食物連鎖で生物濃縮されることが問題視されて、各国で製造・使用が禁じられた。日本でも1970年に使用が禁止された。ミュラーは1948年にこの発見でノーベル生理学・医学賞を受賞し、1962年にはギリシャのテッサロニキ大学から、地中海沿岸の疫学的問題を解決したとして名誉博士号を授与された。ガイギー社の副社長も務め、1965年10月にバーゼルで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- モシェ・シャレット (1965年没)
- シャーリイ・ジャクスン (1965年没)
- ハンス・クナッパーツブッシュ (1965年没)
- エドガー・エンデ (1965年没)
- ヴィットリオ・ヤーノ (1965年没)
同じ地域に関係する人物
- カール・バルト (1968年没)
- デジデリウス・エラスムス (1536年没)
- ヴォルフガング・ボルヒェルト (1947年没)
- Werner Kaegi (1979年没)
- ハンス=ペーター・チューディ (2002年没)