伝記
テオドール・フォンターネは、1819年12月30日にノイルッピンで生まれ、1898年9月20日にベルリンで没した、ドイツの小説家、詩人であり、薬剤師でもあった。19世紀ドイツ文学の詩的リアリズムを代表する最も重要な作家と見なされている。父はユグノーの末裔で薬剤師のルイ・アンリ・フォンターネ、祖父は画家で音楽教師を経てプロイセン王妃ルイーゼの秘書官になった人物である。7歳までノイルッピンで暮らしたが、父が博打の借金のために薬局を売り、スヴィネミュンデに小さな薬局を開いたため、一家は街を去った。ギムナジウムに通ったのち、ベルリンの実務学校に入り、1835年には後の妻エミーリエ・ルアーネ=クマーと初めて出会った。
1836年に薬剤師の修業を始め、1839年に最初の短編小説『姉妹愛』を発表した。修業を終えて薬局助手としてマクデブルクなどで働き、最初の詩もこの時期に書いた。1843年に文学サークル「シュプレー・トンネル」に誘われ、1844年から65年まで同人となった。1844年から翌年にかけて1年志願兵の兵役を務め、友人に誘われて初めてイギリスを2週間旅した。1847年に上級薬剤師の認定を受け、翌1848年には革命派としてベルリンの暴動に加わり、機関紙に過激な文章を4本寄せた。1849年9月30日に薬剤師の仕事を辞めて自由な文筆家として生きる決心をし、同年に最初の書籍『男たちと英雄たち 8編のプロイセンの歌』が出版された。1850年にエミーリエと結婚したが、定職がなく、当初の生活は苦しかった。
翌年、政府の情報局に採用され、1852年に特派員としてロンドンに行き、1855年から59年まで暮らした。『イギリス通信』という報告を書き、ラファエル前派をドイツの読者に初めて紹介した。帰国後は編集者の職が見つからず、紀行文学に専念した。故郷ノイルッピンに関する文章を1861年に『ルッピン伯爵領』にまとめ、これが翌年から『マルク・ブランデンブルク周遊記』に発展し、晩年の叙事文学の素地を形づくった。1851年に最初の子ゲオルクが生まれ、同年、ビスマルクも設立者に加わる保守的な「新プロイセン新聞」の編集部に採用された。ゲオルクに続く三人の息子は幼くして亡くなり、唯一の娘はマルタ(メータ)で、1864年に最後の息子フリードリヒが生まれた。1870年に演劇批評を始め、普仏戦争のさなかに戦場のパリを見に行き、スパイの容疑で逮捕されたが、ビスマルクの抗議で釈放された。
1874年から76年には妻とオーストリア、イタリア、スイスなどを旅した。その後は新聞に書かないと決心し、再び自由な作家となった。主要な小説の大部分は60歳以降に書かれ、『嵐の前』(1878年)、『不貞の女』(1882年)、『迷いともつれ』(1888年)、『イェニー・トライベル夫人』(1892年)、『エフィ・ブリースト』(1894年から95年)、『シュテヒリン湖』(1898年)などがある。登場人物の容姿や環境、言葉遣いを精緻に描き、閉鎖的な集まりでの会話を通して、間接的に社会を批評し、アイロニカルなユーモアを持ち味とした。1892年に重度の脳虚血を病んだが、回復して自伝『20歳から30歳まで』などを完成した。ベルリンのフランス人共同体の墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- フェリックス・マリア・スロアガ (1898年没)
- ウィリアム・ローズクランズ (1898年没)
- ヨハン・ギルデン (1898年没)
- アントン・ヨーゼフ・ケルナー (1898年没)
- ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ (1898年没)
同じ地域に関係する人物
- フリードリヒ・レフラー (1915年没)
- ハンス・ペルツィヒ (1936年没)
- ジャン・ベーラ (1959年没)
- ホルスト・ブッフホルツ (2003年没)
- ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ (1891年没)