伝記
アルフレッド・シスレーは、1839年10月30日、パリのトロワ・ボルヌ通りに生まれた画家である。両親はパリで商売をするイギリス人で、父ウィリアム・シスレーは絹を扱う貿易商、母フェリシア・セルは音楽や社交を好んだ。そのため、生まれはフランスながらイギリス人の画家とされる。1857年、18歳のときにロンドンへ送られ、叔父のもとで商業を学ぶことになったが、商業の勉強よりも美術館を巡ることに時間を費やし、ターナーやコンスタブルの作品に深く魅了された。1860年ごろフランスに戻り、両親の許しを得て、芸術の道に進んだ。音楽にも親しみ、ベートーヴェンの七重奏曲の一節を愛して、仕事中も口ずさんでいたという。
フレデリック・バジールのすすめで、1862年10月にシャルル・グレールのアトリエに入った。そこでモネやルノワール、バジールと出会い、まもなく親しくなる。師の風景の描き方が自分たちの感覚と違いすぎたため、彼らは1863年にアトリエを離れ、フォンテーヌブローの森などで戸外制作を始めた。戸外の風景画を選んだ彼らの作品は、当時の人々が見慣れたものよりも色彩が豊かで大胆であり、サロンの審査員には受け入れられず、展示されることも売れることもあまりなかった。1860年代のシスレーは、父の援助により、他の画家たちより経済的に恵まれていた。ルノワールとは特に親しく、ルノワールはシスレーの父や、シスレーと恋人の肖像を描いている。1866年にはブルターニュ出身のウジェニー・レクーゼクと交際を始め、ピエール(1867年生まれ)とジャンヌ(1869年生まれ)の二人の子が生まれた。この関係に父は不満で、遺産相続から外したという。当時はパリのクリシー大通り近くに住み、画家たちが集まるカフェ・ゲルボワの常連だった。1868年にはサロンに入選したが、評価は高くなかった。
1870年に普仏戦争が起きると、ブージヴァルに住んでいたシスレーは、敵兵により家と財産を失った。翌年には父も破産し、生計のために絵を売るほかなくなったが、作品はなかなか売れず、以後、死ぬまで困窮のなかで暮らした。1871年にパリ・コミューンを避けてヴォワザンに移り、ルーヴシエンヌ付近の風景を多く描いた。その後もアルジャントゥイユ、ブージヴァル、ポール=マルリなどに移り住んでいる。1872年1月には画商ポール・デュラン=リュエルと出会い、デュラン=リュエルは長年にわたり約400点の作品を買い上げた。1874年には、オペラ歌手で収集家のジャン=バティスト・フォールの招きでイギリスに滞在し、テムズ川上流のモレジーで20点近い作品を描いた。1875年には、モネ、ルノワール、ベルト・モリゾとともに作品の即売会を開いた。
1880年代にロワン川沿いに活動の拠点を移し、1889年にはモレ=シュル=ロワンに住んだ。1893年からはノートルダム教会を連作で14点描いた。1897年にはウジェニーとともに再びイギリスを訪れ、8月5日にカーディフで婚姻届を出した。1899年1月29日、モレ=シュル=ロワンで喉頭癌のため亡くなった。妻が癌で亡くなった数か月後のことだった。900点近い油彩の大部分はパリ周辺の穏やかな風景で、多くの印象派の画家がのちに技法から離れたのに対し、彼は生涯、印象派の画法を堅持し続けた。ピサロは、典型的な印象派の画家は誰かと問われて「シスレーだ」と答えたという。
同じ年に亡くなった人物
- Adile Sultan (1899年没)
- オットマー・マーゲンターラー (1899年没)
- ルートヴィヒ・ビューヒナー (1899年没)
- ウリセス・ウーロー (1899年没)
- ロバート・グリーン・インガーソル (1899年没)
同じ地域に関係する人物
- アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン (1860年没)
- Jacques-Joseph Champollion (1867年没)
- セバスティアーノ・セルリオ (1550年代没)
- ジャン1世 (ブルゴーニュ公) (1419年没)
- キャサリン・マンスフィールド (1923年没)