HISTORICAL PERSON · 1050年没

ゾエ (東ローマ女帝)

東ローマ帝国の女帝(在位1042〜50年)。コンスタンティノス8世の次女で、ロマノス3世ら3人の夫を帝位に就けた。ミカエル5世が民衆の蜂起で廃されると、妹テオドラと共同統治した。

生涯
1050年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
トルコ共和国(コンスタンティノープル)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

ゾエは、東ローマ帝国マケドニア朝の女帝で、978年ごろに生まれ、1050年6月に没した。在位は1042年から1050年とされる。皇帝コンスタンティノス8世の次女で、妹のテオドラとともに女帝の位に就いた。三度結婚し、その夫のロマノス3世アルギュロス、ミカエル4世、コンスタンティノス9世モノマコスは、いずれも皇帝となった。たいそう美しかったと伝えられる。フランス語版によれば、生年は、歴史家プセロスが1050年の死のとき72歳だったと記すことからの推定である。

コンスタンティノス8世には三人の娘がおり、長女のエウドキアは幼いころに天然痘にかかって顔に傷が残り、修道院に入った。そのため帝位はゾエに回ってきた。三女のテオドラは、ゾエより聡明だが容姿は劣るとされ、すでに妻のいたロマノスとの結婚を拒んで、父帝に修道院へ送られた。のちにゾエとともに帝位に就くときも、民衆に迎えられて修道院から出てきた。子供のころのゾエは、妹とともに宮殿の女子の居室で過ごした。996年に神聖ローマ帝国から、若い皇帝オットー3世の妃として三姉妹の一人を求める使節が来た。1001年に二度目の使節が花嫁を迎えに来て、ゾエが選ばれ、翌年イタリアへ向かった。しかしバーリに着いたところで、婚約者が高熱で亡くなったと知り、船でコンスタンティノポリスへ戻った。オットー3世は1002年に死去している。1028年には、皇帝を継ぐ立場のゾエに再び縁談が来たが、相手の若いハインリヒがまだ十歳だとわかって流れた。

同じ1028年、父帝は死の少し前に、ゾエをロマノス3世アルギュロスと結婚させた。フランス語版によれば、ロマノスは元老院議員で、すでに妻がいたが、妻は修道院に入ることを受け入れて結婚が解消され、ロマノスが皇帝となった。ゾエは五十歳近くなっていた。しかし皇帝はやがてゾエを顧みなくなり、ゾエは三十歳ほど年下のパフラゴニア出身の青年ミカエルに夢中になった。ロマノス3世は1034年に、入浴中の事故で亡くなった。フランス語版は、宮殿の水槽で死んだと述べる。ロマノスとの間に子はできなかった。同じ日にゾエはミカエルと結婚し、ミカエルは翌日にミカエル4世として戴冠した。

ミカエル4世は癲癇を病む病弱な人であったが、ブルガリア人との戦いに勝利したのち、1041年に修道院に引退して死去した。ミカエル4世は、有力な宦官であった弟ヨハネス・オルファノトロフォスの親族にあたる甥のミカエル5世を、ゾエに養子とさせており、この養子が帝位を継いだ。しかしミカエル5世は権力を握ろうとして、養母のゾエをペトリオン女子修道院へ追放した。マケドニア朝に深い愛着を抱き、ゾエと妹をその最後の代表とみていた首都の民衆は、これに怒って1042年に蜂起し、ミカエル5世は目をつぶされて廃位された。民衆は姉妹を帝位に就け、ゾエとテオドラは共同で統治した。

ゾエは数か月のうちに、かつての愛人の一人であったコンスタンティノス・モノマコスと結婚することを決め、権力を渡した。夫はコンスタンティノス9世となった。日本語版は、同年のうちにテオドラが退位したとする。ゾエは三度の結婚のいずれでも継承者をもうけられず、1050年、夫に先立って世を去った。

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