伝記
グイード・ダレッツォは、中世イタリアの音楽教師で、音楽理論家である。991年か992年ごろに生まれ、1050年ごろに没したとされ、今日用いられる五線による記譜法の原型を考案した人物として知られる。ベネディクト会の修道士で、中世の音楽論のなかで最も広く流布した論文『ミクロログス』の著者でもある。生涯に関する記録は乏しく、彼の人生を知る手がかりは、彼自身の手紙二通に限られるといわれる。
生没についてはわからないことが多い。英語版は、生年を990年から999年のあいだとしている。『ミクロログス』のある写本で、教皇ヨハネス19世の在位中に自分が34歳だと記していたことから、写本の年代を1025年か1026年とみて、生年が991年か992年と推定されている。出身地にも諸説がある。フランスで生まれたとする説があるが、英語版は、フランスで多くを過ごしたとか、パリ近郊の修道院で学んだという話は、疑わしい主張として退けている。有力な候補は、アレッツォと、フェラーラ近くのアドリア海沿岸にあるポンポーサ修道院である。2003年に見つかった文書をもとに、アレッツォの大聖堂で教育を受けた聖職者と同一人物だとする研究者もいるが、確定はしていない。
1013年ごろ、グイードは名高いベネディクト会修道院であるポンポーサ修道院に入り、教育を仕上げた。修道士として名を得て、楽譜を秩序ある視覚的な体系で書き読む方法を作り始めた。聖歌隊の歌手がグレゴリオ聖歌を暗記するのにとても長い時間を費やすことに不満を抱いており、新しい方法なら暗記が不要になり、歌手はほかの祈りや宗教書の学習に時間を使えると考えた。この方法で聖歌を短い期間で覚えさせられるという評判を得て、北イタリアで有名になった。しかし他の修道士の反感を買い、1025年ごろにアレッツォへ移った。アレッツォには修道院がなかったが、指導を必要とする歌手が大勢いた。
アレッツォでは司教テダルドの庇護のもと、大聖堂で聖歌隊を指導した。あわせて『アンティフォナリウム序説』を著し、どんな楽曲にも使える標準的な記譜法を、音楽教師向けの実践的な手引きとして説明した。この優れた手引きは広く流布し、多くの写本が作られた。1028年ごろ、教皇ヨハネス19世の前で指導法を披露した。英語版によれば、彼の革新に関心を持った教皇に呼ばれてローマへ赴いたが、聖職者に方法を説明し始めたのち、夏に病気で去ったという。彼に関する記録は1033年を最後に残っていない。1050年ごろにアレッツォ、あるいはアベヤーノで没したようである。
彼の名と結びつく工夫が、階名である。『アンティフォナリウム序説』で広められたとされる「聖ヨハネ賛歌」は、第1節から第6節までの各節の最初の音がC、D、E、F、G、Aとなっており、冒頭の語から「ウト・レ・ミ・ファ・ソル・ラ」の階名が作られた。ウトは今もフランスで使われるが、発音しにくいため「ド」に変えられ、のちに最後の歌詞からシが加わって、現在の「ドレミファソラシ」が完成した。階名はポンポーサ時代にすでに考案されたのかもしれないが、当時の聖歌集が失われており、詳細はわからない。また、音を手の各所で示して音階を教える「グイードの手」も考案し、音楽教師が生徒に音階を教える際の視覚教材として、長く広く用いられた。
同じ年に亡くなった人物
- スーリヤヴァルマン1世 (1050年)
- エイナル・サンバルスケルヴィル (1050年没)
- アーヌンド・ヤーコブ (1050年没)
- ゾエ (東ローマ女帝) (1050年没)
- インゲゲルド (1050年没)
同じ地域に関係する人物
- バルトロメオ・デッラ・ガッタ (1502年没)
- ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテル (紀元前283年没)
- グレゴリウス10世 (ローマ教皇) (1276年没)
- リュック・フェラーリ (2005年没)
- ルカ・パチョーリ (1517年没)