HISTORICAL PERSON · 1052年没

范仲淹

北宋の政治家・文人。李元昊の西夏の侵攻から陝西を守り、富弼と十策を上奏して施政改革を図った。『岳陽楼記』の「天下の憂いに先んじて憂え」の句は名高く、先憂後楽と後楽園の由来として知られる。

生涯
1052年没
死亡地
中華人民共和国(江蘇省 / 徐州市)
出生地
中華人民共和国(蘇州市)
出典
世界地図
中華人民共和国(江蘇省)

伝記

范仲淹は、北宋の政治家で文人である。989年に蘇州呉県に生まれ、字は希文、諡は文正という。2歳で父を失い、母が朱氏に再嫁したため、その姓に従って名を説と改めた。成長して生家を知ると本姓にもどした。この母は、父の没後に呉県へ戻って夫を范氏の墓地に葬っていた。のち、朱氏の恩を感じ続けた范仲淹は、出世してからその家に報いようとしたと伝わる。若いころは各地で儒者や道士、僧に学び、1011年に応天府書院で学び始めた。食べ物にも乏しい暮らしのなか、家族の助けを受けずに勉学を続けたという逸話がある。1015年に進士に及第し、広徳軍司理参事となって、母を迎えて養った。1020年代の初めには各地の官を歴任し、興化県の知事のとき、友人の滕宗諒とともに沿岸の堤防工事を進めた。完成前に母が亡くなって官を辞したが、土地の人々は全長150キロの堤を「范公堤」と呼んだ。1027年には晏殊に招かれて母校で講義し、教育改革と人材登用の考えを固めていった。晏殊に薦められて秘閣校理となってからは、つねに天下のことを論じ、士大夫の気節を奮い立たせたという。

1036年、開封府の長官となった范仲淹は、若い欧陽脩を弟子に迎えた。この職にあったとき、宰相の呂夷簡が人事で身びいきをしていると公然と非難し、皇帝の前で何度も論争した。その結果、范仲淹とその支持者は地方へ左遷された。余靖、尹洙、欧陽脩も次々と朝廷を去り、彼らは自らを君子の朋党と称した。この事件は、のちに宋の政治を悩ます党派争いの始まりとなった。

1038年に李元昊が西夏を建てると、范仲淹は1040年に韓琦とともに陝西へ派遣された。軍を再編して西夏の攻撃に素早く対応できるようにし、要塞化した集落による縦深防御を進めた。号令は厳明で兵士を愛したので、羌人は龍図閣直学士であった范仲淹を「龍図老子」と呼び、西夏人は「小范老子、胸中自ずから数万甲兵あり」と恐れて国境を侵さなかったという。この方策は1042年の宋と西夏の和平交渉につながった。こうした功績により、欧陽脩の推薦で枢密副使・参知政事となり、仁宗のもとで慶暦の改革を主導した。

范仲淹は富弼とともに、官吏の昇進の基準を明らかにすること、恩恵による任官を抑えること、科挙を精密にすること、長官を厳選すること、農桑を厚くすること、徭役を減らすことなど十策を上奏した。しかし朋党の争いの弊害がすでに現れており、案は喜ばれず、改革は短期で終わったが、范仲淹の考えはのちの王安石ら改革者に影響を与えた。また、一族の義荘を地域の福祉を担う制度として高めたことでも知られる。のち河東陝西宣撫使として出向し、1046年から1050年にかけては鄧州や杭州で地方官を務めた。その後、潁州に赴任する途上の1052年6月19日に亡くなり、兵部尚書を追贈された。

1046年に書いた『岳陽楼記』は特に名高い。左遷されていた滕宗諒が岳陽楼を修復し、范仲淹に文を求めたもので、范仲淹は岳陽楼も洞庭湖も見たことがなく、贈られた絵と太湖の思い出から書き上げた。真に優れた人は見る物や私情に左右されず、「天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ」と述べ、左遷された友を励ました。この「先憂後楽」は後楽園の名の由来とされる。この文は日本にも伝わり、明治の元勲の一人である伊藤博文は「気象万千」の語を琵琶湖疏水の第1トンネル入口の扁額に揮毫した。

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