HISTORICAL PERSON · 1055年没

興宗 (遼)

遼の第7代皇帝。幼くして即位し当初は生母欽哀太后が摂政を務めたが、成人後は生母を幽閉して親政を開始し西夏を屈服させ朝貢させて契丹を全盛期に導いた。

生涯
1055年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

興宗は、契丹(遼)の第7代皇帝である。諱は只骨(ジグ)、漢名は耶律宗真という。1015年または1016年に生まれ、重熙24年(1055年)に没した。第6代皇帝聖宗の長男にあたる。実母は侍女の蕭耨斤(ノウジン)であったが、祖母蕭燕燕の姪にあたる皇后蕭菩薩哥(ブサゲ)に引き取られて育てられた。3歳で梁王に封じられ、1021年、6歳のときに皇太子になったとされる。太平11年(1031年)に聖宗が崩御すると、興宗が皇位を継いだ。幼かったため、実権は生母の欽哀太后(耨斤)が握り、朝政を行った。耨斤はもともと妃にすぎなかったが、皇太后を名乗ったとされる。

耨斤は養母の菩薩哥と長く対立していた。興宗は子のなかった菩薩哥に育てられた恩があり、耨斤から除くよう勧められても従わなかった。1032年、興宗が狩りに出ている間に耨斤は刺客を送り、菩薩哥は自ら縊れて命を絶ったと伝えられる。耨斤の側近や一族が要職に就き、多くの有力者が処刑や罷免を受けた。興宗は政務から身を引いていた。

1034年ごろから興宗は自立の姿勢を見せはじめた。耨斤は興宗を退け、弟の重元を帝位に就けようと企てたが、重元がこれを兄に打ち明けた。興宗は母を先帝の墓の守りを名目に宮廷から遠ざけ、ほかの共謀者を処刑し、正直に告げた弟には官職を与えて報いた。以後は成人して実権を取り戻し、親政を開始した。

親政下の契丹は、国力に衰えの兆しが見えはじめた時期にあたる。興宗は北宋への圧力を強めた。1041年に宋が西夏との戦争に追われると、契丹は南の国境に兵を集めた。1042年には使者を送って宋に要求を突きつけ、交渉の末に宋は歳幣の増額を約束した。宋の使者富弼は、和平なら利益を皇帝が得、戦争なら将軍たちが潤うと説いたとされ、興宗はこれを道理と考えたという。額は銀10万両と絹10万匹の増額とされ、名目は軍費の補助とされた。

西夏に対しては、1044年に三軍を送り、緒戦で勝ったものの、冬の到来と焦土戦術で補給に苦しんで敗れ、興宗の女婿蕭胡覩が捕らわれた。のちに捕虜を交換して和睦した。1049年には西夏に再び攻め入った。西夏を服属させ朝貢させたとする記述がある一方、砂嵐などもあって侵攻は失敗に終わったともされる。興宗は仏教に関心を寄せ、弓や書物を好んだとされる。頻繁な戦争と重税は民の不満を招き、この治世は遼の衰退の始まりともいわれる。1055年、40歳で崩御し、皇太子の査剌(洪基、道宗)が位を継いだ。皇后は仁懿皇后蕭氏で、二人の間に道宗が生まれた。

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