HISTORICAL PERSON · 1055年没

コンスタンティノス9世モノマコス

東ローマ帝国の皇帝(在位1042〜55年)。女帝ゾエと結婚して即位し、文芸・学問を奨励して大学を再編した。官僚制の肥大化と軍縮で財政難や反乱を招き、治世中の1054年に東西教会の相互破門が起きた。

生涯
1055年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
トルコ共和国(コンスタンティノープル)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

コンスタンティノス9世モノマコスは、東ローマ帝国マケドニア朝の皇帝で、在位は1042年から1055年1月11日に没するまでである。1000年ごろの生まれとされるが、英語版は980年ごろとも併記する。姓のモノマコスは「孤独な戦士」の意である。元老院議員の家柄の出身で、都市の貴族層に属した。英語版によれば、父テオドシオスはバシレイオス2世やコンスタンティノス8世に仕えた重要な官僚で、名門モノマコス家の人であった。母の名は伝わらない。生地はアンティオキアだという。

若いころは、父に陰謀の疑いがかけられたことで、経歴に響いた。二度目の妻がバシレイオス・スクレロスの娘で、皇帝ロマノス3世の姪にあたることで、立場が改善した。しかし皇后ゾエの目にとまったことから、ゾエの二番目の夫ミカエル4世によって、レスボス島のミュティレーニへ流された。1042年にミカエル4世が死に、ミカエル5世が倒されると、モノマコスは流刑地から呼び戻され、ギリシアの裁判官に任じられた。ところが赴任する前にコンスタンティノポリスへ召された。ゾエと妹テオドラの共同統治が不和で行き詰まっていたのである。約2か月がたって二人の関係が悪化すると、ゾエは新しい夫を探して、妹の人気と権威が高まるのを抑えようとした。最初に望んだ相手は皇后を軽んじ、二人目は不審な状況で死んだ。そこでゾエは、美男で洗練されたコンスタンティノスを思い出した。二人は6月11日に結婚し、総主教アレクシオスが三度目の結婚を司式しなかったため、彼を抜きに行われ、コンスタンティノスは翌日に戴冠した。

歴史家プセロスは、彼の美貌をたたえ、その体つきの均整と、陽の光のように輝く赤みがかった髪、澄んだ水晶のような白い肌を描いた。性格は気さくで、よく笑い、周りの人々を魅了したという。治世は約13年続いた。文官の出身であった彼は、文官貴族を優遇し、官職を増やして官僚制を大きくした。一方で文芸と学問を奨励し、コンスタンティノポリスの大学を再編して、文化面で功績を残した。英語版は、法学校を設けて法制度を改める試みにも触れているが、成果は限られたという。しかし財政では、バシレイオス2世以来蓄えられていた国庫を使い果たし、金貨の品位も落としたとされ、支出の増大が問題となった。軍事では軍縮を進めて、地方の軍事貴族の反発を招き、各地で反乱が起こった。英語版によれば、二度の内戦に勝ち、いくつかの陰謀を退け、キエフ・ルーシの襲撃も撃退したが、西ではペチェネグ人に屈辱を受け、東ではセルジューク・トルコの台頭を止められなかった。ただしアルメニアのアニ王国を併合し、東へ領土を広げたことも挙げられている。

彼の治世には、1054年の東西教会の分裂が起こった。教皇の使節フンベルトゥス枢機卿が総主教ミカエル1世ケルラリオスを破門し、総主教もフンベルトゥスを破門した。これはノルマン人に対抗するため、東西教会の関係改善を探っていた皇帝の意に反していたが、総主教側の強硬な姿勢を抑えられなかった。この事件は西方教会と東方教会の決定的な分離を招いた。1055年1月11日、慢性の関節炎に関連する感染症のため、コンスタンティノポリスで死去した。世継ぎはなく、その死でマケドニア朝は事実上断絶した。従来は無能で軍事にうとい皇帝、帝国衰退の一因とされてきたが、近年は行政官としての評価を見直す研究も進んでいる。

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