伝記
エドワード・アシリングは、エセリングとも、亡命者エドワードとも呼ばれるイングランドの王族である。1016年に生まれ、1057年に没した。イングランド王エドマンド2世(剛勇王)と、エディスまたはエルドギュスと呼ばれる女性の息子で、生涯のほとんどを祖国から遠く離れた土地で過ごしたことから「亡命者」の添え名がついた。
生まれた1016年は、デーン人がイングランドに侵攻した年である。エドマンド2世が世を去ると、デンマーク王子クヌートがイングランド王に即位した。クヌートは、エドマンド2世の子であるエドワードとその兄弟エドマンドを大陸へ追放した。生後数か月だったエドワードは、殺すようにとの指図書きとともにスウェーデン王オーロフの宮廷へ送られたとされる。しかしオーロフは、少年たちの祖父にあたるエゼルレッド無策王の旧来の同盟者であり、殺害を拒んだという。その後の足取りは確かではなく、さまざまな説がある。密かにキエフへ運ばれ、大公ヤロスラフ1世の宮廷に身を寄せたとも、オーロフによってハンガリー王イシュトヴァーン1世の宮廷へ送られたともいわれる。1030年代にはキエフで、同じく亡命していたハンガリーの王子アンドラーシュと一緒になったと考えられている。アンドラーシュが1046年に王位を取り戻すためハンガリーへ戻った際、エドワードたちも同行して軍に加わり、戴冠式に居合わせた可能性もある。ハンガリーには、王イシュトヴァーンがイングランド人のエドワードに与えた土地に由来するという地元の伝承を持つ所領もある。
時は流れ、クヌートの死後に即位した叔父のエドワード懺悔王が、甥の生存を知ることになる。このころ、デーン人の長い支配の後にウェセックス家の王権は回復していたが、懺悔王は信仰に厚い一方で政治的には弱く、子もなかった。ウェセックス伯ゴドウィンの子ら、とくにハロルド・ゴドウィンソンの勢力は着実に伸び、海峡の向こうではノルマンディー公ギヨーム2世(のちのウィリアム1世)も王位をうかがっていた。エドワードは、この家系を受け継ぐ最後の頼みの綱だった。王と賢人会議の双方に認められた彼は、ゴドウィン家にもウィリアムにも対抗できる、容易に疑われない正統性を持つ存在だったのである。懺悔王は彼を後継者とするため呼び戻そうとした。1054年にはウスター司教エールドレッドを神聖ローマ皇帝の宮廷に派遣し、ハンガリー王との交渉を始めさせた。エールドレッドは最初うまくいかず、1056年のハロルドのフランドル訪問も、この交渉を進める目的だった可能性が高いとされる。
エドワードは1057年、妻子を連れてついにイングランドの地を踏んだ。しかし王に会うことのないまま、到着から数日のうちに、4月19日に亡くなったとされる。到着の2日後だったともいわれる。正確な死因は不明で、殺された可能性も指摘されている。遺体は旧セント・ポール大聖堂に葬られた。
妻はアガサといい、ハンガリー王イシュトヴァーン1世の娘とされるが、その出自には諸説ある。二人の間には、エドガー・アシリング、のちにスコットランド王マルカム3世の妃となるマーガレット、修道女となったクリスティーナの3人の子がいた。エドガーは父に代わって王位継承者に選ばれたが、あまりに若かったため、結局ハロルド・ゴドウィンソンに王位を奪われた。ヘイスティングズの戦いの後には王に選ばれたものの、征服王ウィリアムに服したとされる。孫娘のエディス(マティルダ)はイングランド王ヘンリー1世と結婚し、アングロ・サクソンの血筋は征服後の王家へと続いた。
同じ年に亡くなった人物
- レオフリク (1057年没)
- ウィクトル2世 (ローマ教皇) (1057年没)
- マクベス (スコットランド王) (1057年没)
- オットー3世 (シュヴァーベン大公) (1057年没)
- ルノー1世 (ブルゴーニュ伯) (1057年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョージ・プライス (科学者) (1975年没)
- ディミトリー・ホロストフスキー (2017年没)
- ジェーン・テーラー (1824年没)
- ジェイムズ・オールドリッジ (2015年没)
- チャールズ・コーニック (1851年没)