伝記
ウンベルト1世は、1844年3月14日、トリノで生まれたイタリア王国の第2代国王(在位1878年1月9日~1900年7月29日)である。父はサルデーニャ=ピエモンテ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、母はロンバルド=ヴェネト副王ラニエーリの娘マリーア・アデライデである。弟にスペイン国王となったアメデーオ、妹にポルトガル王妃マリア・ピアがいる。生誕とともにピエモンテ公の称号を得た。子供時代は弟とモンカリエーリ城で過ごし、将軍ジュゼッペ・ロッシを教育係とする軍事中心の教育を受けた。高名な法学者のマッシモ・ダゼーリョらも養育にかかわった。厳しい規律の教育は、成人後の彼を堅苦しく視野の狭い人物にしたともいわれる一方、誠実で率直、親切で温かいと評する人もいる。母を早くに亡くして深い傷を負った。父からは立憲政治についての教育も受けず、父の部屋に入るたびに直立し、話しかける前にひざまずいて手に口づけをすることを求められたという。このことが父子の緊張の原因になった。
1858年3月に陸軍将校としてサルデーニャ王国軍に加わり、軍務を通して青年期を過ごした。イタリア統一戦争が再開されると父とともに前線で軍を率い、ソルフェリーノの戦いでは軍司令官の一人として勇敢に戦って、小説『クオーレ』にも描かれたように、民衆に親しまれた。普墺戦争では、クストッツァの戦いで敗れて後退する友軍を助けようと、第17師団を率いてヴァルテリーナの戦いに参加した。王家としても婚姻外交が課題で、父王は王位を継ぐウンベルトに結婚の延期を命じ、教会との対立や、他国が新たな爵位継承を承認するまでの時間の問題で、縁談は難航した。ハプスブルク家のテシェン公女マティルデとの婚約がまとまったが、彼女は結婚前に大火傷で亡くなった。結局、サヴォイア家傍系の従妹のジェノヴァ公女マルゲリータと結婚し、一人息子のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が生まれた。
1878年に父が亡くなると、議会と貴族の承認を得て王位を継いだ。当初予定されていた「ウンベルト4世」ではなく「ウンベルト1世」を名乗ったのは、「サヴォイアのウンベルト」でなく「イタリアのウンベルト」であることを強調したためと考えられる。外交では父の方針を引き継ぎ、旧敵対国のオーストリアと和解し、ドイツも加えた三国同盟に至ったが、未回収のイタリアの問題を残したままの同盟に反感を抱く国民も多かった。植民地では、1885年に初めて植民地を獲得したが、1896年にはエチオピア本土への戦争を支持したが、頓挫した。教会には強硬な姿勢を続け、旧教皇領には一切の妥協を拒んだ。
即位した1878年11月17日、記念パレードで無政府主義者を名乗る男に斬りつけられ、サーベルでその刃を防いだ。議会は死刑を決めたが、ウンベルト1世は終身刑に減刑した。1897年にも暗殺計画があったが未然に防がれた。1898年5月、パン価格の高騰に端を発する暴動がイタリア各地で起こり、ミラノでは軍に砲撃を命じた将軍の行動で約100人が死亡した。ウンベルトはこの将軍を賞賛して勲章を与え、暴動に加わった人々に深い反感を残した。2年後の1900年7月29日、モンツァへの行幸中に、無政府主義者ガエタノ・ブレーシに銃撃され、4発の弾を受けて崩御した。ブレーシは「虐殺への報復だ」と叫んだという。遺体は父が眠るローマのパンテオンに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
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- イヴァン・アイヴァゾフスキー (1900年没)
- フェリックス・ラヴェッソン (1900年没)
- メアリー・キングスリー (1900年没)
- Jose Maria Placido Caamano (1900年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジアンナ・ベレッタ・モッラ (1962年没)
- エルネスト・ブランビラ (2020年没)
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