伝記
ヴィルヘルム・シュタイニッツは、1836年5月にオーストリア帝国のボヘミアのプラハで生まれ、1900年8月12日にニューヨークで没したチェスプレーヤーである。公式の初代世界チャンピオンで、1886年から1894年までその座にあった。チェスの理論家としても大きな影響を与えた著述家だった。プラハのユダヤ人居住区で、仕立屋ヨーゼフ=ザロモン・シュタイニッツの最初の妻との間の13人の息子の末っ子として生まれた。12歳でチェスを覚え、若いころはタルムードを学んだが、本格的にチェスを指し始めたのは20代になってからである。1857年にプラハを離れ、ウィーン工科学校で数学を学び、2年間在学した。
1850年代の終わりにかけて急速に上達し、1859年のウィーン市選手権では3位、1861年には31戦で30点の成績で1位になった。「オーストリアのモーフィー」と呼ばれ、オーストリア最強のプレーヤーとなった。1862年にオーストリア代表としてロンドンのトーナメントに派遣され、6位に終わったが、モングレディアンとの対局は、大会の最優秀賞を受けた。5位だった老練なイタリアの名手デュボワに対局を申し込んで勝ち、プロへの転向を決め、ロンドンに居を構えた。1862年から1863年にかけては、のちに世界の十指に入るブラックバーンとの対戦で圧勝し、ほかの英国の有力者にも続けて勝った。ただし、1863年3月には、借金を返せないことを手紙でコリッシュに詫びている。ハーヴィッツがロンドン・チェス・クラブでの主な収入源だった顧客を奪っていたためで、シュタイニッツは金の管理が苦手で、生涯貧しかった。
1866年、ロンドンで、当時世界最強とみなされていたアドルフ・アンデルセンと対戦した。アンデルセンは1851年と1862年のロンドンの国際トーナメントで優勝しており、彼より上位だったモーフィーは競技から引退していた。シュタイニッツは8勝6敗(引き分けなし)で勝ったが、12局を終えて6勝6敗の同点で、最後の2局に勝っての辛勝だった。この勝利により、一般に世界最強とみなされるようになった。賞金は勝者に100ポンド、敗者に20ポンドだった。その後も、1866年にバードに勝ち、1872年にはツケルトルトにも勝った。1873年には、1860年代に主流だった全面攻撃型とは異なる新しい指し方を打ち出し、それが優れていることを示した。この新しい指し方は、「臆病だ」と論争を呼んだが、彼の対局は、従来の流儀に劣らない激しい攻撃にも結びつくことを示した。シュタイニッツは新しい考えをみずから著述で熱心に擁護し、論争はときに口汚くなり、「インクの戦争」と呼ばれた。1890年代初めには彼の考え方が広く受け入れられ、次の世代の有力者は、後継者のラスカーを筆頭に、彼への恩を認めた。
1886年に最初の公式世界選手権が行われ、勝利して公式の世界チャンピオンとなった。1888年11月23日にアメリカの市民権を取得し、名前をドイツ語風のヴィルヘルムから英語風のウィリアムに改めた。1888年から1889年には、アメリカ・チェス会議とともに、将来の世界選手権を定める規則づくりに協力している。1894年にエマーヌエル・ラスカーに敗れて世界王座を失い、2年後の再戦にも敗れて、一線から身を引いた。その後、精神を病み、ニューヨークで亡くなった。チェスのプレーヤーであることに誇りを持ち、晩年のある大会で優勝した際には「私は老いぼれたライオンですけどね、口の中に指を入れられれば噛み千切ってやりますよ」と述べたという。
同じ年に亡くなった人物
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- アイラ・ボーエン (1973年没)
- ジェームズ・サムナー (1955年没)
- ジョン・スタインベック (1968年没)
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