HISTORICAL PERSON · 1058年没

エルメシンダ

バルセロナ伯ラモン・ボレルの妃。息子と孫の幼少期に、それぞれバルセロナ、ジローナ、オゾナ各伯領の摂政を務めた。

生涯
1058年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

エルメジンダ・デ・カルカソナ(カルカソンヌのエルメシンド)は、975年前後に生まれ、1058年3月1日に没した女性で、バルセロナ、ジローナ、オソナの三伯領の伯妃である。バルセロナ伯ラモン・ボレイの妻となり、夫の死後は息子の幼少期に摂政として統治し、さらに孫の代にも政治の表に立ち続けた。中世カタルーニャの歴史のなかで、とりわけ大きな政治的権威を持った女性の一人とされる。

出身はカルカソンヌ伯ロジェ1世の長女で、母はアデライダという。弟にはカルカソンヌ伯を継いだラモン・ロジェ、フォワ伯などとなったベルナト・ロジェ、ジローナ司教となったペラ・ロジェがいた。生涯の初期に関する記録は乏しく、993年にカタルーニャの文書に初めて姿を見せる。ただ、同時代の統治者と比べて筆跡が整っていたことから、一定の教育を受けていたと推測されている。文書では、美しい、寛大、敬虔、慈悲深いといった言葉で形容されている。991年にラモン・ボレイと結婚し、息子のボレイ・ラモンとベレンゲー・ラモンらをもうけた。娘のエティエネットは、おそらく彼女の子であろうといわれる。

夫の存命中から政治に関わり、集会や裁判を主宰した。夫は1017年または1018年に亡くなり、遺言により三伯領の共同支配権を終身の権利として妻に残したとされる。そのため彼女は息子の未成年のあいだ、1021年あるいは1023年ごろまで摂政を務め、その後は息子と共同で統治した。しかし母子のあいだにはまもなく不和が生じ、領地の分割で決着した。息子にはバルセロナとオソナが、彼女にはジローナが残された。教会への庇護を重ねて聖職者の側近集団を築き、これが生涯にわたる権力の支えになった。また、南のイスラーム勢力との平和政策をとる息子とは対照的に、戦争を支持したともいわれ、その背景には貴族たちの不満があったとされる。

1035年に息子が急死すると、彼女は共同支配権を主張し、孫のラモン・ベレンゲー1世のために摂政となった。孫は1044年に成年と宣言された。この時期、バルセロナ伯の権威は弱まり、伯に任命された城代や代官たちが武装して封建領主化し、ペネデス地方を中心にミル・ジェリベルトに率いられて、貢納金と引き換えにイスラーム勢力と和平を保つ伯の政策に挑んだ。彼女は孫を助けてこの反乱を抑えたが、旧来のローマ・ゴート的な秩序には戻らず、コンヴェニエンティアと呼ばれる新しい封建的慣行と騎士身分の台頭を受け入れる形での決着となった。

やがて孫が、彼女の構想した婚姻政策を退けてアルモディス・ド・ラ・マルシュと結婚すると、両者は対立した。彼女は教会の上層部に働きかけ、1055年に孫を破門させた。この破門は伯の権威をさらに弱め、貴族の反乱を再び招いたという。1057年、彼女は三伯領の共同支配権を孫に売却し、サン・キルゼ・デ・ベソラの城に退いて、1058年3月1日にそこで世を去った。遺体はジローナ大聖堂の外回廊の石棺に葬られ、1385年にペラ3世の命で聖堂内部に移された。1982年にゴシック様式の墓を開けると、ロマネスク様式の石棺には赤と金に塗られた十七本の帯の装飾があり、これは四本線の紋章の前身にあたる可能性があると考えられた。教会や司教区に多くの寄進を行い、約65年にわたって統治に関わったとされる。その生涯は、ゴート法のもとで貴族女性が享受した地位が、封建的な取り決めの広がりとともに失われていく過程を示すものと見られている。

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