伝記
エマ・ド・プロヴァンスは、11世紀のプロヴァンスの女伯である。1037年から1062年または1063年まで在位し、トゥールーズ伯ギヨーム3世の妃でもあった。エマ・ド・ヴナスクとも呼ばれる。生まれは980年ごろとされる。プロヴァンス伯の家系のうち年長の系統に属し、同じ時期のプロヴァンスの称号は、伯とも辺境伯とも記される。
エマは998年か999年の記録で最初に確認される。そこでは、プロヴァンス伯ルボー2世と妻エルマンガルドの娘として言及されている。父の名はルボー3世とされることもある。母エルマンガルドは、のちにブルグント王ルドルフ3世と再婚したとみられるが、異論もある。兄弟には、ギヨーム3世がいた。
エマの結婚の時期は史料によって揃わない。1019年ごろに、トゥールーズ伯ギヨーム3世と結ばれたともいわれるが、992年とする説や、999年の寄進の記録にすでに妻として現れることから、1000年より前とする説もある。夫のギヨームには前の妻がいたとされ、エマは二人目の妻にあたるという。子については、ポンスとベルトランの二人の息子を挙げる説が中心だが、娘のヒルデガルト・エリゼがフルク・ベルトランに、ランガルダがカルカソンヌ伯ピエール・レモンに嫁いだと伝える説もある。長男ポンスは1060年に没したトゥールーズ伯で、次男ベルトラン1世は1081年以降に没したプロヴァンス伯である。エマと夫は寄進も行っており、1024年にマルセイユのサン・ヴィクトール修道院に寄進した。1023年のこととする記録もある。同じころ、エマは息子ポンスとともにアヴィニョンのサン・タンドレ修道院にも寄進した。
1037年に兄のプロヴァンス辺境伯ギヨーム3世が亡くなると、エマはその跡を継いでプロヴァンスの女伯となった。ただし、この相続については、その分がエマではなく、従兄弟にあたる分家のフルク・ベルトランらのものになったとする説明もある。同じ年に夫も没し、長男ポンスがトゥールーズ伯となった。次男ベルトランはエマとともにプロヴァンスを治め、のちにこれを継いだ。
エマと夫の結婚により、トゥールーズ伯家はプロヴァンスの十字架と、プロヴァンスに対する一部の権利を手にした。この十字架は、のちにトゥールーズの十字架、さらにラングドックの十字架と呼ばれるようになった。プロヴァンスの権利は、12世紀にバルセロナ家とトゥールーズ家が争う南部の大きな戦争の争点となった。エマは1062年か1063年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- チャグリー・ベク (1060年没)
- ポンス (トゥールーズ伯) (1060年没)
- ジョフロワ2世 (アンジュー伯) (1060年没)
- 菅原孝標女 (1060年(推定))
- ギーゼラ・フォン・バイエルン (1060年代没)
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