HISTORICAL PERSON · 1060年代没

エマ・ド・プロヴァンス

プロヴァンス女伯で、トゥールーズ伯ギヨーム3世の妃。1037年に兄の跡を継いで女伯となり、後に次男ベルトランが継承した。この結婚でトゥールーズ伯家はプロヴァンス伯領への権利を得た。

生涯
1060年代没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

エマ・ド・プロヴァンスは、11世紀のプロヴァンスの女伯である。1037年から1062年または1063年まで在位し、トゥールーズ伯ギヨーム3世の妃でもあった。エマ・ド・ヴナスクとも呼ばれる。生まれは980年ごろとされる。プロヴァンス伯の家系のうち年長の系統に属し、同じ時期のプロヴァンスの称号は、伯とも辺境伯とも記される。

エマは998年か999年の記録で最初に確認される。そこでは、プロヴァンス伯ルボー2世と妻エルマンガルドの娘として言及されている。父の名はルボー3世とされることもある。母エルマンガルドは、のちにブルグント王ルドルフ3世と再婚したとみられるが、異論もある。兄弟には、ギヨーム3世がいた。

エマの結婚の時期は史料によって揃わない。1019年ごろに、トゥールーズ伯ギヨーム3世と結ばれたともいわれるが、992年とする説や、999年の寄進の記録にすでに妻として現れることから、1000年より前とする説もある。夫のギヨームには前の妻がいたとされ、エマは二人目の妻にあたるという。子については、ポンスとベルトランの二人の息子を挙げる説が中心だが、娘のヒルデガルト・エリゼがフルク・ベルトランに、ランガルダがカルカソンヌ伯ピエール・レモンに嫁いだと伝える説もある。長男ポンスは1060年に没したトゥールーズ伯で、次男ベルトラン1世は1081年以降に没したプロヴァンス伯である。エマと夫は寄進も行っており、1024年にマルセイユのサン・ヴィクトール修道院に寄進した。1023年のこととする記録もある。同じころ、エマは息子ポンスとともにアヴィニョンのサン・タンドレ修道院にも寄進した。

1037年に兄のプロヴァンス辺境伯ギヨーム3世が亡くなると、エマはその跡を継いでプロヴァンスの女伯となった。ただし、この相続については、その分がエマではなく、従兄弟にあたる分家のフルク・ベルトランらのものになったとする説明もある。同じ年に夫も没し、長男ポンスがトゥールーズ伯となった。次男ベルトランはエマとともにプロヴァンスを治め、のちにこれを継いだ。

エマと夫の結婚により、トゥールーズ伯家はプロヴァンスの十字架と、プロヴァンスに対する一部の権利を手にした。この十字架は、のちにトゥールーズの十字架、さらにラングドックの十字架と呼ばれるようになった。プロヴァンスの権利は、12世紀にバルセロナ家とトゥールーズ家が争う南部の大きな戦争の争点となった。エマは1062年か1063年に没した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物

該当人物はまだありません。