伝記
ギーゼラ・フォン・バイエルンは、985年頃に生まれ、1060年頃(1060年または1065年ともいわれる)に没した、ハンガリー初代の王妃である。ハンガリー王イシュトヴァーン1世の妃で、カトリック教会の福者とされる。バイエルン公ハインリヒ2世と、ブルグント王コンラートの娘である妃ギーゼラの子として、レーゲンスブルク近郊で生まれた。同名の母の名を洗礼名として受け継いだとされる。兄にのちの皇帝がおり、もう一人の兄ブルーノはのちにアウクスブルク司教となった。ギーゼラは長女で、下に妹ブリギッテがいた。母は1006年か1007年に亡くなったとされる。
幼いころから、レーゲンスブルク司教ヴォルフガングらの手でキリスト教の教育を深く受けた。父は在世中、ハンガリーとほぼ絶え間なく国境で争っていたが、995年8月にガンダースハイム修道院で亡くなり、公位は長兄が継いだ。ギーゼラはすぐにハンガリーの後継者イシュトヴァーンと婚約した。このときまだ10歳ほどだった。
結婚式は995年末か996年初めに、シャイエルン城で行われたとされる(995年または1008年とする説明もある)。ハンガリー人は955年のレヒフェルトの戦いに敗れ、ビザンツ帝国とも争いを重ねたのち、西方へ近づいていた。イシュトヴァーンと父ゲーザ大公は985年にプラハ司教アダルベルトから洗礼を受けており、この結婚は帝国の宮廷もゲーザも望んだものだった。結婚には譲歩も伴い、ハンガリーは大モラヴィアの南西部とウィーン盆地を手放してオーストリア辺境伯領に組み入れさせ、国内での布教の拡大も受け入れた。見返りにバイエルンは和平を約束し、国境はその後長く、モラヴァ川とライタ川のほとりでほとんど動かなかったという。ギーゼラには多くの聖職者を含む大勢の随行者が付き添ってハンガリーに入った。997年にゲーザが没するとイシュトヴァーンが大公を継ぎ、皇帝の支持を得て、1001年頃に教皇から王冠を受けたが、戴冠の正確な日付は分かっていない。ギーゼラは1001年から1038年まで初代の王妃であった。
夫妻には少なくとも3人の子があったが、いずれも若くして先立った。長男はオットーという名であったかもしれず、1002年より前に生まれたが、早く亡くなったとされる。同名の別の子がいたともいうが、それを記す史料は後代のものである。記録が豊かなのは1007年に生まれた次男イムレで、のちに聖人とされたが、1031年に狩りの最中に命を落とした。イギリスの公子エドワードの妻アガタをギーゼラの娘とする説は、今では退けられている。ギーゼラは敬われる暮らしを送り、ハンガリー人のキリスト教化を助け、この国の政治を西方へ開くきっかけをつくった。
1038年に夫が没して寡婦となると、夫の甥で後継者のペーテルは、ギーゼラに対する約束を破り、民を圧迫した。ギーゼラ自身も捕らえられて財産を奪われた。1042年、彼女は国王の助けを得て故郷バイエルンへ戻り、ハンガリーを去った。数年をコーヘルで過ごしたのち、パッサウ近郊ニーデルンブルクの女子修道院に入って修道女となり、そこで亡くなった。墓は聖なる場所として知られ、多くの巡礼者が訪れる。列聖の試みは18世紀にあったが実らず、1975年に列福された。ヴェスプレームでは、現在の聖ミハイル大聖堂の地に建った最初の教会の創建者として敬われ、結婚千年の記念も同地で祝われた。
同じ年に亡くなった人物
- ジョフロワ2世 (アンジュー伯) (1060年没)
- チャグリー・ベク (1060年没)
- エームンド (スウェーデン王) (1060年没)
- アンドラーシュ1世 (ハンガリー王) (1060年没)
- 梅尭臣 (1060年没)
同じ地域に関係する人物
- フリードリヒ・クリスティアン (ブランデンブルク=バイロイト辺境伯) (1769年没)
- ハンス・カロッサ (1956年没)
- Rudolf Ismayr (1998年没)
- クリストフ・フォン・シュミット (1854年没)
- レオ・フォン・クレンツェ (1864年没)