伝記
ハンニバル・ギスコは、第一次ポエニ戦争でカルタゴを率いた将軍である。主に海軍を指揮し、陸上の軍勢も率いた。第二次ポエニ戦争のハンニバルとは別人で、血縁関係もおそらくない。生年は紀元前300年から290年ごろとする説があるが、若いころの経歴は分かっていない。史料に初めて現れるのは紀元前262年(一説には261年)で、ローマ軍に包囲されたアグリゲントゥム(現アグリジェント)の守備隊を指揮する将軍としてであった。
アグリゲントゥムでは、少ない守備兵を率いて数か月にわたり粘り強く戦った。カルタゴはハンノの率いる援軍を送ったが、市はやがてローマの手に落ちた。ギスコは戦いの終盤に脱出し、カルタゴに戻ることに成功した。この敗北はローマの包囲が執拗だったことによるもので、彼自身の無能によるものではないとも見られ、指揮官の地位を失うことはなかった。
翌紀元前260年、ギスコはメッシーナ海峡で、カルタゴ艦隊を率いる提督として再び現れた。ローマが初の艦隊を出そうとしており、カルタゴはこの新戦力を阻止しようと決めたのである。リーパリ諸島の近くの海戦で、ギスコは計略によってローマの執政官グナエウス・コルネリウス・スキピオを破って捕らえた。これによりスキピオは「アシナ(ロバ)」とあだ名されることになる。ただしこの勝利は、ローマ艦隊の主力が周辺の海域で行動を続けていたために、実際の意味をほとんど持たなかった。
同じ年、もう一人の執政官ガイウス・ドゥイリウスの率いるローマ艦隊の主力と、ミラエ(現ミラッツォ)沖で戦った。ギスコはカルタゴ海軍の優位を信じ、艦を伝統的な長い一列に並べた。しかしローマ軍は、新兵器コルウス(接舷用の渡り板)で海戦を甲板上の白兵戦に変えた。ローマ軍は海戦に不慣れだったが、陸戦の戦術を海に持ち込んだことで、カルタゴ艦隊に大勝した。ギスコは、この渡り板の恐ろしい効果に出会った最初のカルタゴの将軍となり、旗艦を含む多くの艦を奪われた。
敗戦後に召還されたが、失脚は長く続かなかった。紀元前258年にはサルディニアの防衛に派遣されたが、ローマの指揮官ガイウス・スルピキウス・パテルクルスにスルキ沖の海戦で敗れた。この時、部下に捕らえられてカルタゴに送還されたともいわれる。仲間の信頼を失った彼は、まもなく、他の敗れたカルタゴの将軍たちとともに、無能を理由に処刑された。部下の手で十字架にかけられたと伝える説もある。
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