HISTORICAL PERSON · 2019年没

ベジ・カイドセブシ

チュニジアの政治家。外相や首相を歴任し、2014年に政党ニダ・チュニスを率いて勝利。ジャスミン革命後初の民主的に選ばれた大統領となった。

生涯
2019年没
死亡地
チュニジア共和国(チュニス県 / チュニス軍病院)
出生地
チュニジア共和国(シディ・ブ・サイド)
出典
世界地図
チュニジア共和国(チュニス県)

伝記

ベジ・カイドセブシ(ムハンマド・ベジ・カイドセブシ)は、チュニジアの政治家である。1926年11月29日、地主階級の一家に生まれた。生地はシディ・ブ・サイドともシディ・ブジッドともいわれる。19世紀初頭のサルデーニャ島で活動したチュニジア人マムルークの海賊イスマイル・カイドセブシは、のちに政府の要職を務めた人物で、その先祖にあたる。

少年期にサディキ学院で学び、フランスの植民地当局が独立運動のネオ・デストゥール党の本部を壊すのを目にしたことが政治活動の出発点になったとされる。1941年、15歳のときにハマムリフでネオ・デストゥール党の青年組織に加わり、のちの指導者ハビーブ・ブルギーバと出会った。党員として列車の線路に爆弾を仕掛ける非合法の計画に加わろうとしたが、直前に党幹部のスリマン・ベン・スリマンから党の規律に反すると諭されて思いとどまり、証拠の始末に当たったという。1950年にパリへ渡って法学を学び、帰国後の1952年にチュニスで弁護士を開業して、党の活動家の弁護を始めた。

1956年にチュニジアがフランスから独立すると、ブルギーバの顧問となった。1957年から1971年にかけて、地方行政局長、国家安全保障総局長、内相、首相代理、国防相、パリ大使などを歴任した。パリ大使の在職中に民主主義の拡大を訴えて辞職しチュニスに戻ったが、1981年4月にムハンマド・ムザリ政権の外相として政界に復帰し、1986年9月まで務めた。1987年にブルギーバからザイン・アル=アービディーン・ベン・アリーへ権力が移ると、ベン・アリーに忠誠を表明した。ドイツ大使を経て、1990年から1991年まで下院議長を務めた。

ジャスミン革命後の2011年2月27日、モハメッド・ガンヌーシ首相が、チュニスでの衝突で抗議参加者5人が殺されたことを受けて辞任した。フアド・メバザ大統領代行は同日、「公私とも非の打ち所がなく、強い愛国心と忠誠心、国に奉仕する自己犠牲で知られる人物」としてカイドセブシを新首相に指名した。しかし若い世代の抗議参加者の多くは、協議なしに一方的に指名されたと批判した。5月には、ファラト・ラジ元内相が、10月の制憲議会選挙でイスラム系のナフダ党が勝った場合に備えてクーデターが準備されていると告発した。カイドセブシはこれを「危険で信用ならない嘘」と否定してラジを役職から解任し、街頭では激しい抗議と衝突が数日続いた。10月の選挙後、12月24日にモンセフ・マルズーキ暫定大統領がナフダ党のハマディ・ジェバリを首相に指名したため、首相職を退いた。

その後、世俗派の「ニダ・チュニス(チュニジアの呼びかけ)」党を結成し、2014年10月の国会議員選挙で同党は過半数の議席を得た。同年のチュニジア初の民主的な大統領選挙には同党の候補として出馬し、12月22日発表の公式結果では、第二回投票で55.68%を得て現職のマルズーキを破った。勝利を「チュニジアのために殉じた人々」に捧げると述べ、12月31日の宣誓では「すべてのチュニジアの男女の大統領になる」と誓い、すべての政党や社会運動の合意の重要性を強調した。2019年6月末に深刻な体調不良で入院し、いったん退院したものの、7月25日に現職大統領のまま92歳で亡くなった。任期中のチュニジアは人権団体の報告で初めてアラブ諸国で「自由」とされた一方、テロや緊縮策への抗議、与党の分裂にも直面した。

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