伝記
ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディは、1813年10月10日に生まれ、1901年1月27日に没したイタリアの作曲家である。19世紀を代表するロマン派の作曲家で、主にオペラを作り、「オペラ王」の異名を持つ。代表作に『ナブッコ』『リゴレット』『椿姫』『アイーダ』などがあり、作品は世界中の歌劇場で上演され、大衆文化にも広く根づいている。1962年から1981年までは、1000リラ紙幣に肖像が使われた。生まれたのはブッセート近郊の小村で、当時パルマ公国を併合したフランス第一帝政の領土に組み込まれていた。洗礼ではラテン語の名を受けたが、父が町の役所でフランス語の名で届け出たため、偶然にもフランス市民として生まれることになった。登録簿には「昨日生まれた」とあるが、当時の教会の日付は日没で変わったため、誕生日は9日と10日のどちらの可能性もある。
父カルロは農業のほか小売や宿、郵便の取り扱いも営み、珍しく読み書きができた。ヴェルディは長男として、その仕事を手伝う利発な少年だったが、早くから音楽に興味を覚え、旅回りの楽団や、村の聖ミケーレ教会のパイプオルガンを熱心に聴いた。8歳のとき、両親が中古のスピネットを買い与えると、一日中これに向かった。請われて演奏法を教えた教会のオルガン弾きは、まもなく小さな弟子が自分の腕前を上回ったことを悟り、ときに自分に代わってオルガンを弾かせた。評判は、父と取引のあった音楽好きの商人の耳にも届き、助言を受けた父は、息子の才能を伸ばすためにブッセートで学ばせることを決めた。
1823年、10歳で下宿しながら上級学校で読み書きやラテン語を学び、音楽学校ではプロヴェージから音楽の基礎を教わった。商人バレッツィの家にも通い、公私にわたって援助を受けた。作曲や演奏、指揮の経験を重ねて評判が広がり、17歳のころにはバレッツィ家に住んで、長女と親密になった。さらに進歩を求めて、当時の音楽の中心地ミラノへの留学を目指し、奨学金を申請して、1832年6月にミラノへ移り住んだ。規定の年齢を超えた18歳で音楽院を受験したが不合格となり、ラヴィーニャから個人指導を受けた。ラヴィーニャは才能を認め、あらゆる種類の作曲を教え、演劇を鑑賞させ、スカラ座のリハーサルも見学させた。その見学で、副指揮者が遅れてピアノ演奏に駆り出されると、熱中するあまり片手で指揮を執り始め、指揮者のマッシーニが絶賛して本番の指揮を託した。演奏会は成功し、わずかながら音楽の依頼が舞い込むようになった。
その頃プロヴェージの死が伝わった。バレッツィはヴェルディを呼び戻して後継にしようとしたが、進歩的なプロヴェージを嫌っていた主席司祭が対立候補を立て、町を巻き込む争いになった。義理から、1836年2月にパルマで音楽監督試験を受けて絶賛されながら合格し、ブッセートに戻って職に就いた。同年マルゲリータと結婚し、1837年に長女、1838年に長男が生まれたが、長女は高熱で亡くなった。心中では満足せず、ひそかに作曲を続け、再びミラノへ移ると、オペラ『オベルト』をスカラ座支配人に届けた。1839年初頭には小規模な慈善興行のリハーサルまで進んだが、中止となった。その後、ソプラノのストレッポーニが作品を褒めたことで、スカラ座側から本公演の働きかけがあった。その準備の最中、長男が高熱を発して、1歳余りで世を去った。ヴェルディは悲しみを胸に秘めたまま準備を進めた。
同じ年に亡くなった人物
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