伝記
ヴィクトリア・アデレード・メアリー・ルイーズは、1840年11月21日にロンドンのバッキンガム宮殿で生まれたイギリスの王女である。ドイツ皇帝でプロイセン王のフリードリヒ3世の妃となり、ヴィルヘルム2世の母になった。ドイツ語名はヴィクトリア・アデライーデ・マリー・ルイーザで、家族からはヴィッキーの愛称で呼ばれた。ヴィクトリア女王とアルバート公の長女で、4男5女の第1子にあたる。誕生の際には、女王の母ヴィクトリアが立ち会い、初孫の誕生に涙を流した。最初の子であり、弟のアルバート・エドワード(のちのエドワード7世)が生まれるまでは暫定の王位継承者だったため、「プリンセス・ロイヤル」など数々の称号を授けられた。1841年2月10日に、カンタベリー大主教から洗礼を受けた。名付け親はベルギー国王レオポルド1世で、祖母や母と同じヴィクトリアと命名した。
ヴィッキーは大変な優等生で、父から優れた知性を受け継ぎ、父の大のお気に入りの愛娘となった。幼少期からフランス語、ドイツ語、ラテン語の教育を受け、5歳になるまでに語学を完全に身につけていた。母譲りの画才もあった。父は彼女を評して、心は子供のように純粋で、考えることはまるで男性のようだと書いている。弟が生まれて王位継承権が移った後も、父は彼女に経済学や哲学を教えた。両親は、この子が男の子であれば、と悔やんだほどだったという。女王は息子たちの問題行動にあきれ、長男を愚かな息子と呼び、息子たちよりも娘たちを愛すようになり、長女にイギリスの王位を継がせたいという気持ちも強まった。
ドイツ統一の夢を抱いていた父アルバートは、長女をプロイセンのフリードリヒ王子(愛称フリッツ)に嫁がせようとした。1851年のロンドン万国博覧会を訪れたフリッツを、女王たちは温かく迎えた。10歳のヴィッキーは溌剌とした楽しい少女で、19歳のフリッツをよく笑わせ、二人は親しくなって文通をするようになった。1855年に再びロンドンを訪れたフリッツから求婚され、彼女はすぐに承諾した。1857年に婚約し、1858年1月25日に結婚した。ところがプロイセン首相ビスマルクは、父の影響を受けた自由主義者の彼女が、ドイツの統一に口を挟んでくるのではないかと警戒した。当時のプロイセンは非常に保守的で、王宮は古めかしく、浴室もなく、冬は暑すぎるほど暖房を使うと、女王への手紙で嘆いている。夫妻はポツダム郊外に移ったが、住み心地は良くなく、王室や貴族たちは彼女に対する妬みを隠さなかった。彼女は夫の元家庭教師や、科学者、画家、歴史学者、文学者たちと新しいサークルを作ったが、他の王室の人々はいっそう彼女を非難し、離れていった。
三男と四男を幼くして亡くしたことから、病院作りに力を入れた。結婚前にナイチンゲールと出会い、衛生学や病院管理を学んでいた彼女は、1870年、戦場が近い古城に移って、私財を投じて病院に作り変えた。夫は大いに喜び、人々も努力を認めだした。のちに看護学校「ヴィクトリア・ハウス」も設立し、看護婦の養成のほか、貧しい人々への衛生指導にもあたった。1875年には、ベルリンの「家庭と健康を守る会」の指導者となった。夫妻が設立した幼稚園は託児所を兼ね、共働きの家庭に役立った。女子教育にも尽力し、女子高等教育のために3つの学校を創設したが、イギリス人女性を校長にしたこともあり、人々から非難された。1901年8月5日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- Felix Gras (1901年没)
- ウィリアム・マッキンリー (1901年没)
- ヴィクトリア (イギリス女王) (1901年没)
- コルネリウス・グルリット (1901年没)
- フリードリヒ・クリュザンダー (1901年没)
同じ地域に関係する人物
- ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク (1900年没)
- ゾフィー・エレオノーレ・フォン・ザクセン (1671年没)
- ルートヴィヒ2世 (東フランク王) (876年没)
- ルートヴィッヒ・グリム (1863年没)
- フリードリヒ2世 (ヘッセン=ホンブルク方伯) (1708年没)