伝記
シャルル・エルミートは、1822年12月24日にロレーヌ地方のデュズで生まれ、1901年1月14日にパリで没したフランスの数学者である。数論、二次形式、直交多項式、楕円関数、代数学などを研究した。エルミート内積、エルミート行列、エルミート作用素、エルミート多項式など、その名を冠した数学的対象は多く、エルミート補間でも知られる。
7人兄弟の6番目で、父フェルディナンドは当初製塩所の技師だったが、布地商の娘マドレーヌ・ラルマンと結婚してからは、布地の商いに従事した。1828年に一家はナンシーへ移った。若いシャルルは右足の奇形のため、動きに支障があった。最初はナンシーの王立中学で学び、その後パリで、アンリ4世校、ついで1840年からルイ・ル・グラン校の数学の特別クラスで学んだ。そこでの師リシャールは、ガロアの元の教師でもあり、彼の数学の才能を認めて、オイラー、ラグランジュ、ガウスらの著作を読むよう励ました。エルミートはまもなく最初の研究論文を発表した。
高等教育はエコール・ポリテクニークで受けたいと考え、数学者カタランの指導で、1年かけて難関の入学試験に備え、1842年に入学を認められた。しかし1年後、足の障害を理由に、軍務に適さないとして、学校は継続を認めなかった。復学を試みたが、学校側は厳しい条件を課し、エルミートはこれを受け入れず、卒業しないまま学校を去った。その後、リウヴィルらの数学者や、手紙でヤコビと接触して、アーベル関数の研究、のちには数論についての研究を伝えた。教師の道に進むため、1847年7月に大学入学資格の試験に合格し、翌年5月に数学の学士号を取得した。
1856年にフランス科学アカデミーの会員に選ばれ、1890年には会長となった。パリ大学理学部の高等代数学の講座をデュアメルの後任として1871年から1898年まで担い、1869年からはエコール・ポリテクニークの解析学の教授を務めた。多くの偉大な数学者が挑んだ五次方程式の解法に取り組み、1858年に楕円関数を用いて、初めて一般的な五次方程式を解くことに成功した。1873年にはネイピア数が超越数であることを証明した。この結果を引き継いで、1882年にリンデマンが円周率が超越数であることを証明し、円積問題が否定的に解決された。
数学者ベルトランの妹ルイーズと結婚し、数学者エミール・ピカールの義父でもある。レジオン・ドヌール勲章のグラン・トフィシエ位を受け、スウェーデンの北極星勲章の大十字章も受けた。1901年にパリで78歳で亡くなり、遺された著作の多くはピカールによって没後にまとめられた。アンリ・ポアンカレは、エルミートほどプラトン的な意味で実在論的な数学者を知らないと語っている。
数学観では、しばしば数学的プラトン主義の代表とされる。ただし、哲学には関心がなく、書簡から見ると、数学者が望む対象を自由に創造するというデデキントのような考えには反対で、数学は自然科学のように、関数や数の性質を計算に支えられて深く観察することに基づくべきだと考えていたようである。トマス・スティルチェスとの往復書簡は1903年に出版された。
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