伝記
蔡襄(さいじょう)は、北宋の書家・政治家・文人である。字は君謨、号は莆陽居士。1012年(大中祥符5年)に、興化軍仙游県(現在の福建省莆田市仙游県)で生まれた。父の蔡琇は、はじめ仙游県の枫亭駅の農民で、のちに泉州の吏員を務めたとされる。母の盧氏は、恵安県の名士盧仁の娘であった。蔡襄は15歳で郷試に参加し、18歳で国子監に入ったという。
1030年(天聖8年)に開封の郷試で第一位となり、翌1031年に進士(第10位)に及第して、漳州軍事判官を授けられた。1036年には、范仲淹が宰相の呂夷簡に逆らって左遷され、欧陽脩、余靖、尹洙らも范仲淹を論じて同じく退けられた。蔡襄はこの事件に際して「四賢一不肖詩」を作り、范仲淹や欧陽脩らを声援した。その後、館閣校勘などを経て、1043年に知諫院となり、1044年には右正言として福州の知事を務めた。1047年には福建路転運使となった。
福建では、泉州で知事を務めていたとき、跨海の万安橋(のちに洛陽橋と呼ばれた)の建造を主宰した。工事は1053年から1059年12月まで七年にわたり、銀一千四百万両を要したとされる。橋は長さ三百六十丈、幅一丈五尺で、両側には武士の像が立てられた。蔡襄はのちに橋上に仏塔九座、亭七つを増設し、多くの石彫を刻ませた。欄干の上には、髪を振り乱して頭をもたげた石の獅子があり、口に石の玉をくわえたものもあって、「獅子含珠」と呼ばれた。周辺地域の交通を大いに便利にしたと伝えられる。
中央では、1052年に知制誥となり、1054年には龍図閣直学士として開封府の知事を兼ねた。1060年に翰林学士、1061年に三司使を判し、1063年8月には三司使に拝され、給事中に進んだ。1065年2月に三司使を罷免され、礼部侍郎、端明殿学士として杭州の知事となった。1066年には母の喪に服し、1067年(治平4年)8月、56歳で家において没した。同年10月に吏部侍郎を追贈され、枫亭の蔡嶺に葬られた。のちに忠恵の諡号が贈られた。蔡襄の美しい髭にまつわる逸話がある。ある日、仁宗に進言した際、仁宗が突然「卿の髭は大変美しいが、夜は布団の中に入れて寝るのか、外に出して寝るのか」と尋ねた。蔡襄は答えられず、家に帰って寝る段になっても考え続け、一晩眠れなかったという。
書では、王羲之、顔真卿、柳公権に学び、欧陽脩や蘇軾らから「本朝第一」と推された。後世、蘇軾、黄庭堅、米芾とともに「宋の四大家」に数えられる。もとは蔡京が入っていたが、人柄が悪かったので蔡襄に改められたとする説もある。遺墨に「自書詩帖」「謝賜御書詩」などがあり、碑刻に「万安橋記」「昼錦堂記」がある。著作には『蔡忠恵集』(『端明集』四十巻ともされる)、『茶録』『荔枝譜』がある。『茶録』は唐の陸羽『茶経』に続く重要な茶の専著で、上篇で茶を、下篇で茶具を論じた。1064年に再び英宗に上奏され、建茶の権威としての地位を固めた。『茶録』は、建茶の品評法として「茶色貴白」を説いた。茶葉は白いほど良いとする相対的な意味で、実際にはわずかに緑を帯びたものを指したとされ、後世にこれを絶対視したのは本来の意図に合わないという。この説は全国に広まり、民間で白茶が流行した。また、品質の極めて高い小竜団茶の製造を開拓したともいわれる。『荔枝譜』は荔枝の32品種や栽培、加工・貯蔵の方法を七篇に分けて記している。
同じ年に亡くなった人物
- ボードゥアン5世 (フランドル伯) (1067年没)
- シャイフ・トゥースィー (1067年没)
- 英宗 (宋) (1067年没)
- ヨハネス・コムネノス (1067年没)
- サンチャ・デ・レオン (1067年没)
同じ地域に関係する人物
- 蘇頌 (1101年没)
- 隆武帝 (1646年没)
- 紹武帝 (1647年没)
- ペドロ・サンス・ホルダ (1747年没)
- 宋慈 (1249年没)