伝記
スティガンドは、ノルマン征服前後のイングランドで王たちに仕えた聖職者である。生年月日は分からず、東アングリアの、おそらくノリッジで生まれたとされる。家は比較的裕福で、イングランド人とスカンディナヴィア人双方の血を引いていたらしい。スティガンド自身の名は北欧系であったが、弟エゼルメールの名はイングランド系であった。弟も聖職者となり、のちにエルムハム司教の職を継いだ。また、名の伝わらない姉妹がノリッジに土地を持っていた。1020年、クヌート王の宮廷礼拝堂付き司祭として姿を現す。この年、ヨークの改革派司教ウルフスタンが献堂したアシンドンの王立教会に任じられた。クヌートの治世中の活動は詳しく分からないが、勅許状に証人として名を連ねており、王の周辺に位置していた。
クヌートが1035年に死去したのちも、息子のハロルド兎足王、続いてハーデクヌーズに顧問として仕えた。1042年にハーデクヌーズが没すると、その母でクヌートの未亡人でもあるエマの助言者となった。エマの礼拝堂付き司祭であった可能性もあり、クヌート時代からエマに仕えていたとも考えられるが、初期の昇進が誰の後援によるものだったかは明らかでない。エマのもう一人の息子エドワード証聖王が王位に就くと、スティガンドは王国の行政において中心的な地位を得たとされる。1043年4月3日の戴冠から間もなく、東アングリアを管轄するエルムハム司教に任じられた。これはエドワード治世で最初の司教任命であり、当時のエルムハムは比較的貧しい司教座であった。
同年中に王はスティガンドを罷免し、財産も奪った。しかし翌年には復職を許している。罷免の理由は確かでないものの、同時期の王太后エマの失脚と結びついていた可能性が高い。エマがイングランド王位を要求するノルウェー王マグヌス1世に侵攻を勧め、私財による援助を申し出たという話もあり、スティガンドがその支持を促したと疑われたともいう。エマの富と政治的影響力への反感も二人の没落に関係した。1046年には再びエドワードの勅許状に証人として現れ、王の信任が戻ったことがうかがえる。1047年にウィンチェスター司教へ移ったが、1052年までエルムハム司教職も保持した。同年にはカンタベリー大司教となり、今度はウィンチェスターとの兼任を続けた。
大司教と司教の兼任は教皇側との対立を招いた。複数の教皇から破門されたともいわれるが、その経緯には不確かな点もある。一方で王室における役割は続き、1066年にはエドワード証聖王の臨終と、ハロルド・ゴドウィンソンの戴冠に立ち会った。同年までに蓄積した資産は、王領とハロルドの所領に次ぐ規模であったとされ、修道院の書き手からは教会の金銭や土地を取り立てたと非難された。ハロルドが戦死するとウィリアム征服王に服従した。クリスマスの新王戴冠では、ヨーク大司教エルドレッドが主宰し、破門を受けたスティガンドは補助にとどまった。その後も宮廷に出仕し、司教の叙階を行ったが、1070年に教皇使節によって罷免され、財産を没収されてウィンチェスターに投獄された。1072年、拘禁されたまま死去した。
同じ年に亡くなった人物
- アサディー・トゥースィー (1072年)
- 欧陽脩 (1072年没)
- アルプ・アルスラーン (1072年没)
- サンチョ2世 (カスティーリャ王) (1072年没)
- バグラト4世 (ジョージア王) (1072年)
同じ地域に関係する人物
- マリー・ベロック=ローンズ (1947年没)
- ジョン・モーズビー (1922年没)
- ジョン・ガードナー (イギリスの小説家) (2007年没)
- ダキンフィールド・ヘンリー・スコット (1934年没)
- チャールズ・メトカーフ (1846年没)