HISTORICAL PERSON · 1072年没

欧陽脩

北宋の政治家・詩人・歴史学者で唐宋八大家の一人。古文復興運動を進め、『醉翁亭記』で知られる。『新五代史』を編み『新唐書』の編纂にも当たり、科挙で蘇軾を見いだし、『集古録』で金石学に貢献した。

生涯
1072年没
死亡地
中華人民共和国(安徽省 / 阜陽市)
出生地
中華人民共和国(綿陽市)
出典
世界地図
中華人民共和国(安徽省)

伝記

欧陽脩は、北宋の政治家、文学者、歴史学者で、唐宋八大家の一人に数えられる。字は永叔、号は醉翁、六一居士で、没後には文忠の諡を受けた。1007年8月6日、父欧陽観の任地である綿州に生まれた。本籍は吉州廬陵である。幼くして父を失い、叔父の暮らす随州で育った。家は豊かではなく、母の教育を受けながら、自学自習で学問を身につけた。少年時代に韓愈の文集に触れ、その文章に強い影響を受けた。1030年に進士へ及第し、洛陽で官途に就くと、韓愈の文章に関心を持つ人々と交わった。

1034年には開封で館閣校勘となり、范仲淹と結び付いた。范仲淹が政治改革を主張して失脚すると、欧陽脩はこれを弁護し、1036年に夷陵県令へ左遷された。その後中央へ戻って諫官に任じられ、范仲淹らと慶暦の改革を進めた。改革には官吏登用試験の改善、人事での縁故の排除、俸給の引き上げなどが含まれ、一部は実施された。しかし仁宗は改革を撤回し、改革派は再び退けられた。欧陽脩も1045年に滁州知州へ左遷された。滁州の自然と人々の暮らしを描いた散文「醉翁亭記」は、この地方勤務に結び付いた代表作である。

やがて中央に復帰し、翰林学士などの要職を歴任した。1057年には科挙を監督して蘇軾を見いだし、蘇洵や王安石らの登用にも関わった。枢密副使、参知政事へと進み、1060年代初めには朝廷で大きな地位を占めた。ただし王安石とは政治姿勢をめぐって離れることになる。早くからその才能を認めていたが、新法が実施されると強く反対し、地方官として農民に低利で貸し付ける青苗法の実施を拒んだ。1067年頃には身に覚えのない嫌疑も受け、調査によって名声を損なった。退職の願いはすぐには認められず、山東や安徽での勤務を経て、1071年に政界から退いた。

文章では韓愈の例にならって古文復興を推し進め、科挙でもその文体を重んじた。詩と詞の双方を書き、詩には質実な作風を示し、詞では西湖の景物を詠む一連の「采桑子」が知られる。歴史の編纂にも携わり、地方にいる間に『新五代史』を著し、中央では宋祁とともに『新唐書』を編んで1060年に完成させた。『新五代史』は二十四史のうち、私人一人の手で書かれた唯一の書である。両書は春秋学的な性格を持ち、のちに清代の史実を重んじる立場からは、文学性をめぐる批判も受けた。金石文を集めた『集古録』も残し、金石学の発展に寄与した。号の六一居士は、蔵書一万巻、拓本一千巻、琴一張、碁一局、酒一壷と、それらに囲まれる一人の居士を意味するという。文章を上達させるため、多く読み、多く書き、多く工夫して推敲することを説き、よい考えが生まれる場として馬上、枕上、厠上を挙げた。

1072年9月8日、隠棲先の潁州で没した。多くの作品は南宋の周必大によって『欧陽文忠公集』にまとめられた。その南宋本のうち、旧金沢文庫蔵の153巻は天理図書館に伝わり、日本の国宝となっている。2011年には、この本に従来知られていなかった書簡96篇が含まれることが確認された。「日本刀歌」では日本刀を詠むとともに、中国で失われた古書が日本に残るという主題を扱った。この詩は、日本側の歴史観にも影響したと考えられている。

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