HISTORICAL PERSON · 1073年没

周敦頤

北宋の儒学者で、主著は『太極図説』『通書』。朱熹に宋学の祖とみなされ、程顥・程頤の兄弟が少年時代に師事したとされる。『愛蓮説』は漢文教材として知られ、人柄は「光風霽月」と讃えられた。

生涯
1073年没
死亡地
中華人民共和国(江西省 / 廬山)
出生地
—
出典
世界地図
中華人民共和国(江西省)

伝記

周敦頤は、北宋に生きた儒学者で、字を茂叔、号を濂渓という。1017年、道州営道県の学者官僚の家に生まれた。初めの名は敦実であったが、1063年、新帝英宗と同じ文字を避けるため敦頤に改めた。十四歳で父を失い、叔父の鄭向のもとへ引き取られた。叔父の縁によって官職に就き、1040年には県の職務を担当した。その後も各地で地方官を務め、州の職員を監督する職や教育に関わる職、州の副長官などを歴任した。ただし進士の資格は得ず、高位の官職に上ることもなかった。

官僚として働く一方、宇宙の生成と人の道徳とのつながりを考え、『太極図説』と『通書』を著した。『太極図説』では、『易経』の太極の概念を陰陽と五行の思想に結び付け、図で示した。図を説明する文章は約二百五十字と短い。万物の根源に太極を置き、無極との関係も論じた。その運動によって陽が生まれ、静まることで陰が生まれるとした。運動と静止が交代し、陰陽の結合と変化から木・火・土・金・水の五行が生じる。さらに陰陽と五行が組み合わさり、尽きることのない変化のなかであらゆるものが生成するという考えである。五行は単なる具体的な物ではなく、万物に共通する成り立ちの原理として扱われた。

『通書』は、その宇宙の原理を踏まえて道徳を説いた書である。周敦頤は太極を、『中庸』で重んじられる誠と結び付けた。人の根本に誠があるとは、その根本に太極があることだとしたのである。しかし誠を備えていても、周囲の状況を正しく判断できなければ、誤った行動に陥る可能性がある。そこで学問を通じて自分を磨き、小さな兆しから後の展開を判断して、適切な善い行いを選ぶことが必要になる。その研鑽の道こそが聖人へ通じると説いた。誠は善悪を見分け、自分をよりよくする基礎でもあった。五行は仁・義・礼・智・信の五つの徳に直接対応すると考え、人間は万物のなかで最も優れた形でこれらの性質と力を受けるとした。仁・義・礼・智・信などの道徳と、宇宙を成り立たせる力を切り離さず、人が自らの気を整えて自然に調和することを考えた。

この考えは、人を生まれながらの性質によって上知・中人・下愚に分ける性三品説とは異なっていた。人はそれぞれ、根本に太極へ通じる誠を持ち、学ぶことによって聖人に近づけるからである。こうした見解は、従来の貴族に代わって台頭する宋代の士大夫にかなうものとなった。生前の周敦頤は広く注目されたわけではなかったが、少年時代の程顥と程頤が教えを受けたとされる。蓮を論じた『愛蓮説』も残し、この文章は後に『古文真宝』へ収められ、漢文の教材として知られるようになった。黄庭堅は、その澄み切った心を光風霽月にたとえて称賛した。

1072年に官を退き、廬山のある江西で暮らした。退隠の地の川にちなみ濂渓を名乗り、1073年7月14日に没した。南宋の朱熹は、孔子と孟子から続く儒学の道統に周敦頤を置き、宋学の祖とみなした。1175年に朱熹と呂祖謙が編んだ『近思録』では、『太極図説』が巻頭に据えられた。1200年には元公の称号を贈られた。朱熹の評価を通じて、宇宙論と道徳を結ぶその学説は儒学史の重要な位置を占めるようになった。

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