伝記
平安時代の後三条天皇は、1034年9月3日に生まれた日本の第71代天皇である。諱は尊仁。後朱雀天皇の第二皇子で、母は三条天皇の皇女、禎子内親王であった。藤原氏を直接の外戚としない天皇とされるが、父母はいずれも藤原道長の外孫で、自身も道長の曾孫に当たる。父の即位に伴って親王となった。1038年に着袴の儀を迎えた際、公卿たちの態度はふさわしくなかったといわれる。1040年に初めて父帝に対面したときにも、頼通らは遅参し、不満げだったとされる。尊仁への壺切御剣の献上が即位まで行われなかったという話も伝わるが、誤伝とする説がある。1045年、異母兄の後冷泉天皇が即位すると、数え年十二歳で皇太弟に立てられた。立太子の実現には藤原能信が力を尽くしたとされ、以後も東宮大夫として尊仁を支えた。
皇太弟の時期は二十三年に及んだ。藤原頼通と教通は娘を後冷泉天皇の後宮へ入れ、その子に皇位を継がせようとしており、尊仁は冷遇を受けたとされる。ただし摂関家とは血縁で結ばれ、単純に疎遠だったとはいえない。1046年に元服すると、能信は藤原公成の娘茂子を養女にして妃とした。茂子は後の白河天皇となる貞仁親王を産んだが、1062年に若くして没した。1051年には後一条天皇の皇女馨子内親王も妃となっている。後冷泉天皇に後継の皇子が生まれないまま1068年に崩御したため、尊仁は同年5月22日に皇位を継いだ。
即位後は能信の養子能長を重用し、皇太子貞仁の東宮大夫に任じた。大江匡房や藤原実政らの中級貴族も登用し、親政を進めた。一方、皇太弟時代に尊仁を軽く扱った源隆国の息子俊明も用い、報復に偏ることは避けた。藤原道長の子である教通はその治世を通じて関白を務めており、摂関家に代わる強い外戚が成立したわけではなかった。1069年には延久の荘園整理令を出し、記録荘園券契所を設けて荘園の権利を審査した。1070年には絹布の制、皇室の経済基盤を強めようとした。こうした政治は延久の善政と称された。
荘園整理では摂関家と関わる荘園も対象になったが、頼通が設けた荘園すべてが廃されたわけではない。平等院領の荘園は、前天皇や関白による特別の設立として審理を免れた。皇室や摂関の特権によって整理令を回避する余地が残り、のちの領域型荘園へつながる動きも生じた。皇位継承をめぐっても摂関家との協調が図られた。1071年には頼通の子師実の養女賢子が貞仁の妃となり、同じ年、後三条と源基子との間に実仁親王が生まれた。実仁へ皇位を継がせる構想があったとされ、師実は貞仁だけでなく実仁の養育にも関わるようになった。1072年には宣旨枡と估価法を制定した。
1073年1月18日、貞仁へ譲位して太上天皇となり、実仁を皇太弟とした。さらにその弟輔仁への継承も意図していたが、同年6月15日、病によって崩御した。数え年四十であった。その後、1085年に実仁が没すると、白河天皇は翌年、輔仁ではなく実子善仁を皇太子に立て、即日譲位した。善仁は堀河天皇となり、後三条の考えた皇位継承は実現しなかった。白河のもとで、その後の院政が制度として定着していくことになった。
同じ年に亡くなった人物
- キエフのアントニー (1073年没)
- アレクサンデル2世 (ローマ教皇) (1073年没)
- ベネディクトゥス10世 (対立教皇) (1073年没)
- 周敦頤 (1073年没)
- ドミンゴ・デ・シロス (1073年没)