伝記
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、本名をノレンドロナト・ドットといい、1863年1月12日に英領インドの首都カルカッタ(コルカタ)で生まれ、1902年7月4日に没したインドのヒンドゥー教の出家者、ヨーガ指導者、社会活動家である。ラーマクリシュナの弟子で後継者であり、ラーマクリシュナ僧院とラーマクリシュナ・ミッションの創設者である。インド内での社会奉仕活動、インド外への布教に尽力し、植民地時代のインドで人々に民族的自覚を促した。カーストはオクリン・カーヤストの出で、父ビッショナトは裕福で進歩的な弁護士、母はブバネシュワリであった。
1879年にコルカタのプレジデンシー・カレッジに入学し、1年後にスコティッシュ・チャーチ・カレッジで哲学を学んだ。西洋論理学や、ミルやスペンサーの哲学に非常に興味を持った。英語も堪能だった。しかし、西洋の学問を学ぶうちに、神と神の存在についての不審が芽生えた。叔父が長年秘書を務めるブラフモ・サマージの会員になったが、真の宗教体験は得られないと感じて、離れた。1882年、17歳で初めてラーマクリシュナに会い、誰からも満足な返答を得られなかった問い「あなたは神を見たことがありますか」を投げかけた。ラーマクリシュナは「うん、私は神様を見たよ。ここでおまえを見ているように、私には神様が見えるんだよ」と答えた。ノレンドロは大きな驚きと心の安らぎを感じ、この体験を契機として、師の死まで4年間、その下で学んだ。納得できないことにはすぐに反論し、師の見たカーリーは幻覚にすぎないのではないかとさえ言ったが、やがて熱烈にラーマクリシュナを受け入れた。
1884年の初めに父が心臓発作で亡くなり、一家は経済的困窮に見舞われた。ラーマクリシュナは1886年8月に喉頭癌で亡くなり、ノレンドロは23歳だった。その後、中心的な弟子たちは、僧になって一切を放棄するという誓いを立て、バラーナガルのあばら家に住み、家主の施しで生活した。1890年7月、出家者は遊行の旅に出るという伝統にしたがって托鉢生活を始め、ベナレスやヒマラヤなどを放浪した。1892年ごろ、スワミー・ヴィヴェーカーナンダを名乗るようになった。各地で、イギリスの支配下で大部分の人々が貧困と飢餓に苦しむ姿を目の当たりにした。そして、心の教えだけを説くのは無益だと考え、社会的実践の必要を感じるようになり、社会の平等を西洋に学び、西洋は精神的な教えをインドに学ぶべきだという信念を抱いた。1892年にインド最南端のカンニヤークマリに辿り着き、瞑想にふけった。
アメリカのシカゴで開かれる万国宗教会議に、藩王たちの資金援助を得て、ヒンドゥー教を代表して出席することになった。ボンベイ、コロンボ、シンガポール、香港、長崎、横浜を経てバンクーバーに上陸し、シカゴへ向かったが、会議は9月に延期されており、それを知らなかったため、資金が枯渇した。幾人かのアメリカ人の助けを受けて、会場にたどり着き、1893年の第一回集会で、アドヴァイタ・ヴェーダーンタを根幹とする6回の講演を行った。ヒンドゥー教の普遍宗教的な性質を、高い英語力と説得力ある語り口で、原稿を持たずに語り、「普遍宗教」の演説は熱狂的に歓迎された。欧米で非常に高い評価を受け、インド宗教・アジア宗教を代表する思想家と位置づけられた。インド国内では、「ヒンドゥー教の救世主」とみなす人もいた。奉仕の大切さを説いてラーマクリシュナ・ミッションを運営し、マックス・ミュラーやロマン・ロランらにも支持された。
同じ年に亡くなった人物
- カール・アウグスト・ボレ (1902年没)
- フランツ・ヴュルナー (1902年没)
- イライザ・アン・グライア (1902年没)
- アルベルト (ザクセン王) (1902年没)
- チャールズ・ルイス・ティファニー (1902年没)
同じ地域に関係する人物
- サタジット・レイ (1992年没)
- ラビンドラナート・タゴール (1941年没)
- タシ・ナムゲル (1963年没)
- ウタパル・ダット (1993年没)
- シュクマル・レイ (1923年没)