HISTORICAL PERSON · 1078年没

ピエトロ1世・ディ・サヴォイア

サヴォイア伯。母の意向に従う統治で実権は乏しかったが、アスティ司教との領有権争いを平和的に解決した。男子に恵まれず弟が跡を継いだ。

生涯
1078年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ピエトロ1世・ディ・サヴォイアは、オッドーネ・ディ・サヴォイアとスーザ辺境伯アデライデの長男である。生年は1048年とされるが、1043年ごろとする説や1047年から1049年の間とする説もある。フランス語ではピエールと呼ばれ、モーリエンヌやアオスタの名を冠して記されることもある。弟には後継者となるアメデーオと、アスティ司教となったオッドーネがおり、姉妹にはベルトとアデライデがいた。父が没した1057年ごろから1060年ごろに相続が行われた。サヴォイア伯、アオスタ伯、モーリエンヌ伯として数えられる一方、当時の証書でサヴォイア伯を称した証拠はなく、スーザおよびイタリアの辺境伯として扱う見方もある。

父の領地は息子たちに分けられ、ピエトロは母方から来たイタリアの所領と辺境伯号を、弟アメデーオはブルゴーニュ王国内の領地と伯号を受け継いだとされる。しかし、兄弟の統治には母アデライデが強い権力を保ち、イタリア側だけでなく弟の相続地でも摂政を務めた。ピエトロ自身が実権を振るう余地は乏しかった。治世中にはラ・ヴェッツァの所有をめぐってアスティ司教と争ったが、平和的な解決に至った。一方、トリノ司教クニベルトとは協定を結び、サン・ミケーレ・デッラ・キウーザ修道院の修道士たちと対立しており、武力衝突も経験している。

1064年または1065年ごろ、アキテーヌ公ギヨーム7世とエマ・ド・シャルトルの娘アニェーゼ・ディ・ポワティエと結婚した。彼女はアニェーゼ・ダクイターニアとも呼ばれる。1066年か1067年には、姉妹ベルトがドイツ王ハインリヒと結婚した。2人は幼いころから婚約していたが、ハインリヒは結婚の実行を避けようとして、枢機卿ピエトロ・ダミアーニに諭されたという。結婚から3年後には、ハインリヒが婚姻は成就していないとして離婚を求めた。しかし教皇使節となったピエトロ・ダミアーニは王を非難し、離婚を認めなかった。教皇と対立するハインリヒにとって、主要なアルプス越えの道を押さえるこの家は、協力を求める相手でもあった。

1077年、ハインリヒがカノッサへ向かった際には、ピエトロまたは母がモン・スニ峠の通過を認めた。母アデライデ自身も王に同行して教皇のもとへ赴いた。その代償として、王がブルゴーニュの一地方に関する権利を譲ったともいわれるが、その地域の比定には複数の説がある。ピエトロは1078年7月9日に死去した。男子はおらず、弟アメデーオ2世が後を継いだが、権利と称号はいったん母に戻ったともされる。娘アニェーゼは1080年にフレデリック・ド・モンベリアルと結婚した。もう1人の娘アリーチェはサヴォーナ侯ボニファーチョ・デル・ヴァストの妻とされるが、この娘の存在を疑い、イタリアの権利を正当化するために系譜へ加えられたとみる説もある。

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